青春の輝き
「なあ、今度楽器屋に行く時付き合ってよ」
高3の春、佳宏は真面目な顔をしてそう言った。私は首をかしげた。
「楽器……買おうと思ってさ」
思わず歩みを止めた。確かに高校生にもなると自分の楽器を持っている人は多いが、佳宏の家はそこまで裕福というわけではないはずだった。
「楽器って、数万円で買えるもんじゃないんだよ」
「わかってるよ。だから部活と両立してバイトもしたし。まあまだ足りないから、父さんにちょっと借りるけど」
佳宏はファミレスでアルバイトを始めて、最初のお給料で私に誕生日プレゼントを買ってくれていた。そのあとも勉強と部活とバイトで毎日くたくたに疲れているのが私にはよくわかって、何度か佳宏の身体が心配になって、もうバイトなんてやめなよと言った。そのたびに佳宏は、俺は全然平気と言って笑うのだった。確かに、疲れたとかもう嫌だとかそんな弱音は一度も吐かなかった。
そこまでしてサックスを手に入れようとしていたなんて知らなかった。佳宏がそこまで真剣にサックスと向き合おうとしていたなんて思いもしなかった。もしかして一生続けていくつもりだろうか。
「俺、音大に行きたい」
それは、ずっと一緒に地元の大学に進学するものだと思っていた私にとって、大きすぎる衝撃だった。
「渚は笑うかもしれないけどさ。本気になったよ。浪人してでも受ける覚悟できた。自分でもここまで惚れ込むなんて思ってなかった……」
「ばかじゃないの」
佳宏を見ていられず、下を向いたまま、持っていた教本を投げつけた。
「笑わないよ。怒るよ。あんたが音大? 本気で言ってるの。ちょっとうまいからって調子に乗ってるんじゃないの。あんたよりすごい人なんてね、いっぱいいるんだよ。その中でも音楽で食べていける人なんてほんの一握り」
「ああ、わかってるよ」
「なんでよ……そんなバカなこと言うなんて思わなかった。あんたがそこまで考えるようになるなんて」
「渚ならわかってくれると思ったけどな」
「わかんない。そんな夢、わたしにはわからない!」
佳宏は教本を拾い上げてそっと表紙の汚れを払った。悲しそうな眼をしていた。
「なあ、俺を吹奏楽部に誘ったこと、後悔してる?」
返す言葉がなかった。
ただ、佳宏が時間を持て余していたから、私が佳宏と一緒にいる時間を増やしたかったから、軽い気持ちで誘った。それが佳宏をもう引き返すことのできない道に引き込んでしまうことになるなんて思わなかった。私なんて、音楽を所詮趣味程度としか考えていなかったのに。
楽器屋にはついていかなかった。とてもそんな気分にはなれなかった。まさかサックスに佳宏を取られるとは。
もしもあのとき佳宏に吹奏楽をやろうなんていわなければ、私たちはこれからも一緒にいられたかもしれない。佳宏は趣味で何か別のスポーツを続け、私も趣味で音楽を続けたかもしれない。そして同じ大学に進学し、卒業して平凡に一緒に暮らす。私が望んでいたのはそんな未来だったのだ。
数日後の部活に、佳宏はぴかぴかに光る新品のサックスを持ってやって来た。後輩たちが大勢佳宏にたかっていたが、私はその輪に入ろうとしなかった。
佳宏が抱えているその楽器に、嫉妬すら覚えた。でも本当は、そこまで音楽を愛することのできる佳宏が、そしてそんな佳宏とめぐり合うことのできた楽器が、うらやましくてたまらなかったのだ。
「なあ、渚。怒ってる」
やがてパート練習の時間になると、佳宏のほうからすぐに話しかけてきた。
「怒ってなんか……」
怒る理由がなかった。佳宏は何も悪いことなんてしていない。私だって佳宏の進路を、夢を否定するつもりなんてなかった。
「ごめんね」
「ヤキモチやいた?」
佳宏は新しい相棒を大事そうに抱きしめて隣の席に座っていた。私はそっとその綺麗な体を撫でた。吸い込まれそうに深い、いい色をしていた。きっと佳宏が吹いたら本当に素晴らしい音を出してくれるのだろうと思った。
急にバカバカしく、そして申し訳なく感じた。私は笑って首を振った。楽器にやきもちなんてやくものか。佳宏が見つけた夢のかたまりに。
「名前、つけた?」
「楽器に? まだだけど。渚がつけてよ」
「……じゃあ、ナギサ」
佳宏はぎょっとして、信じられないといった顔で聞き返してきた。
「正気?」
「正気よ」
「じゃあ、いつか渚が自分の楽器買ったらヨシヒロってつけてよ」
あんたも正気じゃないねと言うと、「自分が正気じゃないって認めた」と笑われた。
わかっていた。きっと数年後の私の元には、佳宏もヨシヒロもいないだろうと。佳宏の相棒のナギサも、いつか佳宏のもとを離れていくときがくるのだろうと。それでも、どこかで私たちを結び付けておくものがほしかった。
二度目の春、佳宏は芸術大学の音楽科に合格し、一緒に育った街を出て行った。滅多に地元には戻って来ず、やがてヨーロッパのどこかに留学したと聞いた。
大学を卒業して私が結婚するとき、佳宏からはおめでとうと電話をもらっただけだった。さらに数年後、佳宏が結婚したことは、佳宏のいない同窓会で初めて耳にした。久しぶりに手紙を書いたら、その返信には一枚のチケットが同封されていたのだった。