刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
感涙を流しながら須臾が恒河沙に抱き付いて、頭を撫で顔を擦り付ける。彼の大事の中にソルティーしか出てこなかったのは、はらわたが煮えくり返るほどムカつくが、それでもこうも成長が窺える話が聞けたのは、育て親としてこんなに嬉しい事はない。
「僕は嬉しいぃ!」
「ちょっ、待てよっ。苦しぃ……」
床に押さえ付けられ、須臾の体重を一身に受けながら恒河沙は呻いたが、誰も助けてはくれなかった。
じゃれあう二人を横目に、項垂れたバナジェスタにソルティーとハーパーは向き合い、彼の言葉を待った。
恒河沙の言葉が彼には痛烈な批判に聞こえたのに違いなく、ソルティー達はどちらの言葉にも意味があると感じていた。
「………はぁ〜。俺、間違ってたのか?」
独り言の様な呟きに、ソルティーは返事をするかどうかを迷い、する方を選んだ。
「何の証拠も無く動くのは、得策じゃないのは確かだと思う。しかし貴方達が襲われる可能性は低い状態だったのが、私達を匿った事で狙われる可能性も出来てきた」
ソルティーの言葉にバナジェスタは、ハッとしたような顔となった。
「すまない、やはり最初の段階でここへ来るのを断っていれば良かった。だから私達は普通にこの街を出ようと思う。そうすれば、少なくとも貴方達の危険性は減る」
「いや、でもそれじゃ確実に襲われる」
「大丈夫さ。危険にも卑怯な手段にも慣れている」
戸惑いがちに顔を上げて見つめる先には、事もなさげなソルティーと深く頷いているハーパーが居た。
コマコラの梟を軽々と倒した彼等なら、確かに戦いに慣れている。きっと賞金稼ぎ達が束になっても、そう大事にはならないだろうし、ガルクとソウナに危険が及ぶ確率も低くなるだろう。
だが、しかし、と思う。
迷いを投げかけたのは、胸に突き刺さった恒河沙の言葉だった。
「……いや、抜け道に案内させてくれ」
「気持ちだけで充分だ」
「違う。男が一度口にした事を、それも恩義有る相手に約束した事を反故にしたら、それはガルクに見せられる姿じゃない。俺は腰抜けの賞金稼ぎだが、ガルクの父親として彼奴に見せる背中だけは、いつも真っ直ぐにしなきゃいけないんだ。……それを気付かされた」
バナジェスタは須庚の下敷きにされてジタバタしている恒河沙に視線を向けながら、揺るぎない決意を込めた言葉で語った。表情からも迷いは消え失せ、もうソルティーが何を言おうと聞き入れるつもりはなさそうだ。
「そうか。なら、よろしくお願いする」
彼の立場を考えれば、決して賢明な判断だとは言えない。
それでも必死にガルクの父親になろうとしている彼の思いは無碍に出来ず、それを気付かせたと恒河沙に、ソルティーも一度だけ視線を送って目を瞑った。
恒河沙が語った理想論に、恐ろしさを感じた。
疑いや迷いが微塵も存在しない、絶対の正義がそこにある。在るのは正義のみで、善も悪も無い。もしその基準がずれてしまえば、絶対的な悪に変化してしまうだろう。
彼が純粋に自分を信じていくれているのは、嬉しいと思う。だがその反面、胸中には警鐘が鳴り響くようだった。
――もしも私が消える時を見たら、お前は誰を憎むんだ?
それが自分であって欲しいと心からソルティーは望んだ。
朱陽が完全に姿を隠し、空全体を蒼陽の青白い明かりが包んだ頃、ソルティー達はバナジェスタに案内されて街を抜け出す事になった
彼の家の裏口を出れば直ぐに崖が存在し、そこを登り切ると雑木林があり、それが山へと通じている。ハーパーだけはその巨体の為に、姿を消して空を抜ける事になり、四人で雑木林に入る事になった。道と呼べる物は全くなく、少し進めば身の丈を覆うほどの雑木が密集しており、それを隠すように背の高い針葉樹が生息していた。
彼の話では街の者も殆ど入らないような場所だと言う。
「これは災禍の副産物なんだ」
「副産物?」
「ここら辺は昔から特に災禍が多い。どういう訳かは知らないけど生態系がこんな風に狂って、朱陽が差し込まない状態でも木が生えまくる。ついでに磁界も歪んでるから、獣族でも方向感覚が狂って直ぐに迷子になる。だから人が寄りつかない」
賞金稼ぎという荒仕事に就く者は獣族が多く、その直感と鋭い五感に頼ってしまう獣族の特性を逆手に取った道だ。
次の街へと向かう街道を大きく迂回し、その間ずっと同じ景色が続く。森と同じに案内人が居なければ、決して目的の場所に辿り着けない、抜け道には打って付けだと言える。
「だけど……おっさんも獣族じゃん」
自信たっぷりの説明を受けて、恒河沙は余計に不安になったらしく、実際彼が言わなくても他の二人も同じ疑問を口にしたい気分だった。
「まあそうだけど。ほら、これ」
バナジェスタは立ち止まると、背の低い何処にでも生えている様な雑草を指差した。
「これは俺が植えた。ここら辺には自生しないのを、何種類か俺の感覚で判る間隔で目印にしたんだ。順番や種類は俺だけが知っている。道もこれだけじゃない。そりゃ道を繋ぐまでに時間は掛かったが、確実だ」
弱いなりの作戦だと彼は言って、また先を歩き始めた。
その根気の要る作戦に恒河沙は素直に感心を示すが、ソルティーは須臾と視線を合わせながら、その意味を同時に考えた。
仕事の為に必要としている道でないのは、彼の日頃を知れば想像しやすい。この道は彼が逃げる為に用意した、それも時間を掛けて、慎重に作った道だ。
それにバナジェスタは出掛ける前に、ガルクとソウナを別の部屋に移している。
大人では窮屈な小部屋は、扉を閉めればただの壁にしか見えなかった。夜に出掛ける時は必ずこうしていると説明した彼の顔は、何かを確実に警戒していた。
では何から逃げようとしているのか。
同業者に狙われる様な、この様な事はそうしないだろう。その為の道化だった筈だ。殺す価値も、いたぶる価値も無いと、バナジェスタはずっと誇りを捨ててまで周囲に見せていた。
――確か他国から追い出されたと言っていた。それが原因か。
ガルクとの経緯から推測すれば、バナジェスタがこの仕事に就いてからの時間は、多く見積もっても十年に満たないだろう。
獣族の殆どの成人の儀式は、人間よりも五年は早く執り行われる。少なくとも彼は此処へ来る前に、十五年から二十年は他の仕事に従事していた筈だ。賞金稼ぎになる以前の話は、一切口にしなかった。高額の首狩りを行う賞金稼ぎになった事実を考えれば、それなりに平和とは程遠い暮らしだったかも知れないが、果たしてどうだか。
確実に言えるのは、彼が今でも必要以上に鍛え上げている体は、腰抜けには必要ない。必要があるとするなら、彼が語ったどうしても狩らなければならない首の為。
――狩る者と狩られる者か。
ソルティーは漠然とバナジェスタの背中を見つめた。
数々の辛酸な思いを背負ってきた背中からは、確かにまだ存在する彼の誇りを感じさせていた。
バナジェスタの掻き分ける道を辿り、周りの景色に目がそこそこ慣れ始めた頃、急に彼は立ち止まり、後ろを振り向いた。
「どうしたんだ?」
ソルティーが声を掛けると、彼は普通ではない焦りを滲ませながら、微かに肩を震わせながら声を出した。
「今……ガルクの声が…」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい