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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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 真っ赤になった顔よりも、更に熱い手の感触がなんだか変だった。



 須臾が戻ってからまずソルティーが指示したのは、四人の残していた食料を一つに集める事だった。四人と言ってもハーパーの持つ物は、恒河沙の分だが。
「普通でも三日分か」
「此奴が居るから一日分にもならない」
「悪かったな」
「仕方ない」
 ソルティーは集めた食料の内、常人の一日分を恒河沙の袋に入れると、ハーパーに渡した。
「恒河沙を連れて先に行っていてくれないか」
「ええーーーっ、なんでだよぉ」
 ハーパーが何かを言うより早く恒河沙が異を唱えるが、ソルティーは受け入れなかった。
「次の街まで順調にいっても七日。ハーパーなら一日も掛からずに行ける距離だ。お前はこれだけでなんとか凌いで行くんだ」
「でもソルティーと須庚はどうすんだよ、七日もこれだけで足りないだろ」
 恒河沙は残った二日分の食料を見ながら言うが、ソルティーはおろか須臾やハーパーにも聞き入れるつもりは微塵もない。
 戦力が二分されるよりも、恒河沙が腹を減らした方が始末が悪いのは、三人の偽らざる本音である。
「あのねぇ、僕達は小食なの小食。一日二日抜いても、大丈夫に出来ているの。だからこれだけ在れば充分足りるの」
 須臾が恒河沙の腹をつつきながらソルティーの援護に廻った。畳み掛けるようにソルティーも口を開く。
「心配しなくても大丈夫だから。お前は先にハーパーと街に行って、私達を待ちなさい」
「そうそう。お前が心配するのは食料だけで良いの。ソルティーは僕がしっかり面倒見てあげるから」
 須臾が膨れた恒河沙の頭を指先で小突き、ソルティーが無理矢理ハーパーの元まで連れていく。
 恒河沙は尚も反対なのだが、どうしても言い返せないままハーパーに預けられた。
 誰も「お前が居なければ」とは言わないのが、余計に自分を情けなく感じさせ、気を抜けば泣き顔を浮かべてしまいそうだ。
「頼んだ」
「御意」
 ハーパーは恒河沙を両手に抱き上げ、ソルティーに頷くと上空を見上げた。
 土埃が舞い上がると同時にハーパーも空へと飛ぶ。
「おお、早い早い」
 須臾が自分達を見下ろす恒河沙に小さく手を振る。
 色の変わり始めた空にハーパーの姿が消えてから須臾の見送りは終わり、上から水平へと顔を戻すと、其処には食料の入った袋が突き付けられていた。
「何?」
 受け取ったそれには、残っていた総ての食料が入っているのは明白だった。
「お前一人ならこれで充分だろう?」
「一人って、ソルティーは」
「必要ない。言っただろ、死んでるって。私は別に食べなくとも動ける」
 ソルティーは声には軽さがあった。
 言い終わると地面に置いてあった自分の鞄を担ぎ、黙ったままの須臾を置いて村の出口に向かう足取りにも迷いはない。
 須臾は慌ててソルティーの後を追い、彼の肩を掴んだ。
「一寸待ってよ。その死んだとかどうとか言うけど、今まで食べてたじゃないか」
 この辺がいまいち納得出来ない理由だろう。
 確かに禁呪と言われる外法に、死霊を死体に憑依させる呪術も存在する。しかしあくまでもそれは死体でしかなく、死体に意思はない。術者の命令通りに動き、ソルティーの様に意志を持ち、人と変わらぬ生活はしない。
 人と同じ感情を持ち、人の営みが出来るのは、即ち人と呼ぶ生者が道理なのではないだろうか。
 そうした生者としての営みをこれまで続けていたソルティーを知っていればこそ、それを断とうとする彼の気持ちが須庚には理解しがたい。
 それなのに彼は首を振る。
「私が今まで食事を口にしていたのは、怪しまれない為だ。食べる事に意味を持っていた訳じゃない。それに味のしない物を食べても、面白味がないだろ? 折角お前に話して楽になったんだ、無理に嘯く事はしたくない」
「無理にって……」
 これまでソルティーが、人としての営みを無理して続けていたとは思えない。きっと本当にそれを楽しんできたのだと思う。
 けれど彼の抱く事実が、真実を自分に告げた事によって、嘘や隠し事になってしまったのかも知れない。
 そう考えれば、須庚の二の句は多く浮かんでこなかった。
「だったら、もう言わないでよ」
 掴んでいた手に力を入れ、自分を見ずに真っ直ぐ前に向かうソルティーに言う。
「食べなくて良いなら、それで良いよ。でも、死んだとか言わないでよ。あんたが自分の事をどう思ってても、僕はそう思えないんだから、そんな悲しい事、言うなよ」
 ソルティーの為を思うなら、彼の言葉を受け入れてやるのが本当なのだろう。
 誰かに話したくて仕方なかった彼が、自分なら言っても構わないと思ってくれた事は、真実嬉しかった。
――でも、やっぱり誰かが居なくなるのは嫌だよ。
 この手に触れた感触が無くなる。気を許した冗談が言えなくなる。笑い掛ける事が出来なくなる。
 ただ、嫌だった。



 向かい風を全身に感じながら、恒河沙はぼうっと地上の走る景色を眺めていた。
 人の脆弱な体では、ハーパーの本来の速度には耐えられない。高度も速度も抑え、尚かつハーパーの腕が恒河沙から風の抵抗を少なくしている。
 恒河沙がずっと夢見ていた飛行の筈が、今回だけは無味乾燥した感覚だけしか伝えない。
 今こうして自分が飛んでいるのは、自分の為だけ。誰かに迷惑を掛けて実現した事だ。
 気持ち良い筈の風も、綺麗な筈の景色も不安を掻き立てるだけ。
「ビーツが見えたぞ」
 その言葉に我に返ってハーパーを一度見上げてから、地上に目を走らせた。
 谷間から顔を覗かせたツォレン最後の街ビーツ。街の色は白く、その向こうに国境を巡る高い壁が垣間見える。
 所々壁が崩れているのは、絶えず繰り広げられている戦の爪痕。
 グンとハーパーの翼が撓った。
 ハーパーが着陸するのに選んだのは、ビーツを一望できる小高い丘らしい。

 丘からは徒歩に切り替えて街に入ると、真っ先に恒河沙が入ったのは食料品店だった。
 そこで両手一杯に買い込んでから、
「これ持ってソルティーの所行こう!」
 そう言った。
 問題だったのは食糧だけ。それさえ有れば戻っても良いと主張する恒河沙に対して、ハーパーは首を縦に振らなかった。
「どうして……」
「その様な命は受けては居らぬ」
「でもあれだけじゃあ二人とも絶対お腹空くだろ。困ってるよ」
 大通りの中央でハーパーを見上げて、必死に説き伏せようとするが、どうしても彼の答えは同じだった。
 ソルティーから頼まれたのは、恒河沙を頼むと言う事だけだ。
 もし必要ならソルティーはそう言う。己の体と旅を計算し、確かな答えを導き出す。その計算が通用しない恒河沙を除いて、彼の言葉はハーパーには絶対だった。
「だったら、俺だけでも行くっ!」
 埒の明かないハーパーに見切りを付け、恒河沙はもと来た道を戻り始めた。
「お主は何処まで主の命に逆らうのか」
 強く恒河沙の腕を引き、その拍子に地面に食料を入れた紙袋が落ちた。
「主はお主に此処で待てと申したであろう。何故に、その様に軽はずみな行動をとろうとするのか」
「だってぇ……」
 恒河沙はハーパーのきつい言葉に俯いた。