刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
今は仮体として知らずに神の手に踊らされようとしている恒河沙に、若干同情的な姿勢を持つハーパーが、総てを知ればこのままであるとは言い切れない。
精霊を嫌い神を憎むまでになった彼の頑なな心では、神同士の謀によって生み出された存在だと考えないとは言えないだろう。少しでも主人への危険を減らす為だけに、恒河沙を排除しようと動くかも知れない。
そして必ず事実を恒河沙に突き付けるだろう。そうなった時に、果たして恒河沙が何を思うのか。
ソルティーは握り締めた手が逃げないように、更に力を込めた。
「ハーパーは怒りん坊で困る。お前もそう思うだろ?」
「お……俺に言われても……あぅあぅ……」
「あ〜る〜じ〜〜」
手にした物を失わずに居られるなら、ずっと何も語らずに居た方が良い。
少しでも長く、お互いの存在する意味を知らないからこそ続けられる今を留める為に、ソルティーは大きな背中が血圧を上げていくのを感じながらも、恒河沙を抱き締める腕にも力を入れていった。
村から少し離れた場所に、身を潜める様に蹲る男が居た。
周囲には高い木が三本程生えている以外には、岩が転がっている位だ。その内の、人一人が体を隠せる程の岩の横で、彼は岩に向かって何やら小さな声で呟いている。
『何をやって居るんだ、早くその結界を壊せ』
彼が手にして頻りに語りかけているのは、先程からソルティー達を襲っている虫だった。それもその虫よりも彼の手にしている虫の方が、一回り程大きい。それが二匹だ。
『やっと俺様にまで出番が廻ってきたんだ、早く奴等を殺すんだ』
小柄な男で、落ち窪んだ目には生気が感じられない。いや、生気どころか、別々の方向へと向いた瞳の位置は、それがまともに使われていない事を示している。
男の名は蔘蚕(さんてん)。最近まで紫翠大陸に居た筈の妖魔だ。
使うのは勿論虫。それ以外にはない。はっきり言って妖魔の中でも、彼は弱すぎる部類の性質しか持ち合わせていない。
『どうしたんだよ、お前達の力はそれだけだったのか?』
自分の力では何も出来ないから虫を使い、こうして陰に隠れて虫に命令しているだけ。
しかもそのあまりにも無様な姿を、まともに隠せるだけの知恵もない。虫の行動を調べさえすれば、ここへ来るには容易く、そして見つけるのも同じ。
「みーつけた」
『ひっ?!』
突然自分の向かっていた岩の上から響いた声に、蔘蚕は驚いて上を見上げるのと同時に、驚きのあまり盛大に後ろに転けた。
岩に乗っていたのは勿論須庚であり、その彼が呆れた表情を浮かべていたのは、如何にも相手が弱そうだったからだ。
なんせ彼は、これまでにジェリやゲルク、そしてバルバラという、妖魔の中でも格上の者達とそうとは知らずに戦ってきていた。妖魔その物をまだ理解し切れていなくても、それなりに相手が強いかどうかは判ってくる。
「いい加減にしてくれないかな、僕、虫が大嫌い何だよね。特に黒いのとか、足が沢山あるのとかさぁ」
須臾は自分を見て狼狽えている男を見下ろしながら、腕を組んで不満を口にした。
『なっ何を言っているのかわからんが、彼奴等の仲間か』
ハッキリとした紫翠の言葉に、須臾は思わず眉を上げた。
『へぇ、こんな所で紫翠語が聞けるなんて意外だったなぁ』
『……俺もだ』
別に妖魔だからと言って、総てが破壊や殺意に対する欲望を持ちはしない。
特に蔘蚕の様な小者の妖魔が持つ欲は、探求心から産まれた欲だ。
さしずめ蔘蚕は虫に対する物なのだろうが、そう言った欲を持つ者は少ない。同種の欲望を孕む死に際の感情が、妖魔の最も大きな糧になるのでは、蔘蚕は何時まで経っても小者のままで居るしかないだろう。
須臾は岩から蔘蚕の足下に飛び降りると、蔘蚕は急いで後ろに下がった。
『ねぇ、同郷のよしみで虫連れて帰ってくれない? そうしたら、殺さないであげるから』
槍を蔘蚕に突き付け、事もなく言いきる須臾に彼は笑った。
『何を言うか。これからは俺様達妖魔が世界を制する時代だ。そんな槍一つで俺様の操る鷲双が止められると思うなよ』
『世界を制するって、そう言うのを地精に言われたわけ?』
『なっ?! 何故それを知っている!』
『うーん、紫翠にも地精が動いていたか……。まずったかな。――いや、あっちは完全にオレアディスの支配領だし、あの婆は腹立つが最強だし大丈夫か』
『おいお前っ、俺の質問に答えろ!!』
独り言を呟き始めた須庚に蔘蚕は苛立ちのままに怒鳴ったが、返されたのは不適な笑みだった。
『ああもう良いよ、用は済んだから。さっさと諦めて帰ってくれない』
サラッと言い捨てる須庚は、本当に蔘蚕に興味が失せたと言わんばかりだ。
だがそう言われて黙ってられる小者など居ないのは、国や陸地を変えても同じ事。蔘蚕は小刻みに肩を震えさせると、手に乗せた虫を撫でながら立ち上がった。
『ふざけおって! 貴様も俺様の餌にしてくれるっ!!』
蔘蚕が須臾に向けて指を突き出すと、四方から羽音が響き始める。
空に這い出た黒い塊が大挙として一直線に須臾に飛び掛かった。
『悪いけど、これ槍じゃないんだよね』
小者らしく攻撃方法に変化のない相手に、須庚はそう言うと槍を両手で持ち水平に構える。
『風よ』
小さく呟くと槍が細かい振動を起こし、槍を中心に凛とした音が響きわたった。
音が鳴るのに一瞬遅れて、須臾を取り巻く様に突風が吹き荒れ、群を成して襲ってきた虫を一層する。
ただの風ではなく、渦を描く風は高速から生じさせた真空の刃となって、次々と虫を切り刻んでいった。
須臾の槍はただの武器ではなく、呪導具もしくは響鳴具と呼ばれる呪界の増幅を主とする術具だ。精霊の好む白銀で造られ、表層総てに彫り込まれているのは呪紋。
それを使う事で精霊の負担を減少させるという、とても女性の精霊に優しい呪導具である。
『ひぃ』
蔘蚕の目の前で、切り刻まれてバラバラになった虫達が空から降り注ぐ。
まさかこんな優男に、自慢の虫を退けられるとは思っていなかった彼は、落ち窪んだ目を更に落ち込ませ、引きつった声を上げた。
『僕、忠告は一度しかしないんだ。……死への誘いを』
『ひぃぃぃ』
冷たい微笑みを浮かべた須臾に蔘蚕は心底怯え、無様に逃げの体勢を取る。その後ろ姿に須臾の放った業火と水流が襲いかかった。
『ぎゃぁっ……』
蔘蚕に先に到達した水は彼を包み込むと同時に姿を消し、その体の硬直を促した。そして次ぎに彼を取り囲んだ炎は蔘蚕の体だけではなく、彼の体を支配していた力さえ燃やし尽くした。
『みんな、お疲れ様ぁ』
須庚は蔘蚕の死を確認するまでもなく、自分を楽しそうに囲む気配に愛想を振り巻いたあと、槍を元の三つ折りに直すと、何もなかった様に村に体を向けた。
須臾が蔘蚕を倒した直後、ソルティー達を取り巻いていた虫は、ちりじりに飛び立って姿を消した。
「どうやら終わったみたいだな」
「……う…うん…」
ハーパーの結界が解かれると同時にソルティーの腕から解放され、恒河沙はぼうっと自分の両手を眺める。
「どうした?」
「あ、ううん、何でもない」
慌てて首を振りながら恒河沙は両手を後ろへと回した。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい