刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
ソルティーが民家を飛び出し、声の方向に目を向けると、恒河沙と須臾が何かから逃げる様子でこっちに向かって走っていた。
「どうしたんだ?」
ソルティーが叫ぶと、須臾が強張った顔をして、村の中でも一番破壊を受けていない民家を指差した。
其処へ逃げ込めと示唆する眼差しに、ソルティー達も急いでそちらに向かった。
「うわぁっ」
頭を抱えて恒河沙が家に飛び込み須臾が扉を閉める。
閉じた扉がばたばたと礫を投げつけられている様な音を出し、それは扉だけではなく窓や壁、屋根にまで当たっていた。
「何があったんだ?」
「何って、虫だよ虫。もう沢山の虫が大群で飛んできた」
「もういっぱいいっぱい上からどぁあっと!」
「これが罠の内容と言う訳であるな」
ハーパーが民家のそこら中に開けられた小さな穴の正体がそれだと呟き、ソルティーは頷いた。
「これ見てよぉ」
須臾が自分のマントを広げて、開いた穴に指を通す。幾ら呪紋を敷き詰めた物でも、飛んでくる堅く鋭い虫には通用しなかった。
しかも多足の蠢く虫の姿に、須庚は魔法を使うよりも早く悲鳴を上げて逃げ出していた。
「あ、一匹取ってきた」
恒河沙が握っていた手を開いて、自慢げな顔でソルティーに差し出す。
「持ってくんなよっ!!」
「いいじゃんか別に、結構格好いいぞこれ」
逃げない様に指で弄るそれは、黒光りする細長い甲殻に鋭い顎を持っていた。大きさは親指くらいだ。
「主、どうなさるのか。このままじっとは出来ますまい」
ばたばたという音は消えたが、変わりに軋む音が響きだしている。
閉じきった窓を確認の為に開ける事も出来ず、様子を確かめてはいないが、恐らくこの民家の側面を言う側面に虫がへばりついているのは、簡単に想像できる。
「この虫が考えて襲っている筈がないな。何処かに虫の頭が在る筈だ。それを捜そう」
ソルティーの当たり前の結論に、思いっきり須臾が嫌な顔をした。
体には虫への生理的嫌悪から発疹が現れ、今はそれを治すのに必死なのだ。
恒河沙の様に無邪気に虫を見る事も出来ないのに、ソルティーは結論を口にしながらもしっかりと自分を見ているのだから、悪い予感で済ませられそうにない。
「この僕に、虫退治をしろ、と?」
露骨に嫌そうな顔の須臾に、ソルティーはにっこりと微笑み頷く。
「この中で頭を捜せるのはお前だけだろう? 囮は引き受けてやるから、しっかりと駆除してこい」
「嫌だと言ったら?」
「給金が減るな。宿の質も落とさせて貰う」
「……了解しましたぁ」
「俺は? 俺は?」
「ハーパーの後ろを護ってくれ」
「おっし」
「それでは、反撃開始」
ソルティーが入って来た扉に背を向け、意気消沈したままの須臾を置いて奥へと進み、突き当たりの壁を前にする。
「誰とは知らぬが、済まぬ」
この民家の持ち主に一言詫びを入れてから、ハーパーは右手を握り締め、開きながら腕を薙ぎ払った。
巻き上がる炎は民家の家具もろとも壁を崩し、壁に張り付いていた虫を焼き払う。
ソルティー達は炎を纏いながら崩れていく壁をくぐり抜け、虫の羽ばたきを背に走り出した。
「もう、こんな役は嫌いなのに」
燃えながらも蠢く虫から目を反らし、須臾は槍を袋から取り出すと、虫の気配の消えた扉に向かった。
「惷屡(しゅんる)ちゃん、しっかり働いてよ」
武器にまで女性の名を付け、それを愛おしそうに撫でながら、手首を一度振る動作だけで槍を本来の長さにする。
「では、眺めの風、囁きの水、流れの大地、息吹の火よ、一寸ばかし手を貸して」
呪文でもなく、呪紋を敷く訳でもなく、ただ須臾が呼び掛けるだけで、彼の周りに半透明の女性達が現れた。前に現れた者達とはまた別の精霊達だ。
ミルナリスの様な魔族と違って、触れられる程の実体化までには至らないが、それでも彼女達は確かに四大精霊の中でも高位の存在だ。
「少しだけ付き合ってね」
須臾は何時も通りに女性を口説く口調で語りかけ、精霊達は須臾に嬉しそうに微笑むと、まとわりつく気配を残して姿を消した。
「んじゃ行きましょうか」
今度は自分に語りかけながら扉を開けた。
ソルティー達は村の中央まで走り、其処で一端足を止めた。
逃げ回るにしてもハーパーの体では、どうしても虫に追い付かれてしまうし、かといって此処で働いているのは彼しか居ない。
無数に飛来する虫を一匹ずつ落とすのは難しいし、普通の虫とは到底思えないそれの速度は、生半可の物ではなかった。
「別に俺ハーパーの後ろ居なくても良いじゃん」
敵の目に付きやすい場所に到着した時点で、ソルティーはハーパーに結界を張るように指示した。
結界には虫達はへばりつく事も出来ずに、ぶち当たっては弾かれていく。内側から見るその光景はあまり気持ちの良いものではないが、結界から出なければ襲われる事もない。
しかし須庚のように活躍する場面を奪われてしまった恒河沙は、思いっきり不服そうな顔をしていた。
「此処まで来るのには必要だっただろう?」
「そうだけどさぁ」
ソルティーが心配しているのは、自分達に残されている食料が、恒河沙の一日分くらいしか残っていない事だ。
ハーパーに虫を焼き払って貰うのは簡単だが、その背後を恒河沙が働ける様に護らせていると、それだけ彼の空腹感が早くに来る。
村に恒河沙の腹が満たされる物が無いのなら、極力彼を動かすわけにも行かない。
だからこそ須臾一人に任せたのだ。
「まあ直ぐに須臾が終わらせてくれるから。それまで我慢だよ」
広範囲は敷く事の無理な狭いハーパーの結界の中で、背中から恒河沙を抱え込みながら耳元に囁き彼の顔を赤くする。
「う…ん……」
前に回されたソルティーの手に両手を握られていると、我慢しようとしなくても身動きできない。
――矢張り意識があると簡単には移せないな。
ソルティーの理の力を移せる能力を、これまでに部分的に色々と試したのだが、手を通した方が一番効率が良かった。それでも恒河沙が起きている時には、眠っている時の十分の一も効果を示さなかった。
それは今の恒河沙の意識が、オレアディス側で構成されている証拠にはなった。しかし現時点の問題として、彼の空腹感を納められない事は、極めて重要な問題だ。
「主……我の背後で不謹慎な真似は慎んでいただきたい」
憮然とした背後からの言葉に、ソルティーは肩を竦めた。
思惑は別の所にあるが、それを一々説明するのも恒河沙が居る内は無理だ。しかもソルティーには、ハーパーにも恒河沙の事を言うつもりはなかった。
確率が五分となった恒河沙の冥神の仮体としての役割。その反面、彼は人ではなくなった。徒に精霊嫌いのハーパーに教え、彼を悩ませたくはない。
「須臾が居ると不謹慎な事を考えるのも大変だ。それにこれ位良いじゃないか、なあ恒河沙」
「ソルティ……えっと、俺……」
「主っ!」
背後にある二人の気配が、更に密になっていくのに耐えきれないとハーパーは怒鳴ったが、振り返ってまで二人を引き剥がすまではしなかった。
無論これが恒河沙からそうしているなら、引き剥がすのも簡単だ。妙に積極的なっているソルティーを相手に、恒河沙ですら戸惑っているから、それが出来ない。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい