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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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「ならば今一度お主に頼むとしよう。主の傍に居てくれ。何が在ろうと、主から離れるなと、我は切に願う」
「ハーパー……」
「この間は言葉を荒立てて済まぬかった。あれはお主の責では無かった」
 頭を下げだしたハーパーに、恒河沙は泣きそうな顔で縋り付いて頭を振った。
 謝りたくても言葉が詰まって声に出せないのは、その表情で判る。その必死さにハーパーは願いを込めた。
「では頼まれてくれるな。責任を持って、最後まで主の傍に居ると」
「居る、絶対に離れない」
 ハーパーの最後が、仕事の終わりを意味しているのか、それとも人生そのものを意味しているのか、そんな事は恒河沙には判らない。
 それでも恒河沙は約束した。
 当たり前の事を当たり前の様に、その言葉が本当になる様に。





 ハーパーのお墨付きと、ソルティーの証明を手に入れた恒河沙は、始終嬉しそうにし続け、ミルナリスの辛辣な言葉にも耳を貸さなくなった。
 彼女と口喧嘩をしても、ソルティーは必ず自分の方を先に呼んでくれる。それが恒河沙の自信にも繋がり、誰が何を言おうと関係ないと思えた。

 恒河沙が一人上機嫌な中、順調にクハンの街に入り一夜を明かした後は、翌朝早くに山へ向かった。
 結局迂回の計画はそのままになり、クハンだけの山越えだ。足踏みではなく、旅を楽しむ為のソルティーの選択にハーパーは何も言わなかった。
 十日以上掛かる山越えに備え、持てる限りの食料を購入しても、恒河沙の意気揚々の足取りは軽い。しかもハーパーにも持って貰えた保存食と非常食袋のお陰で、あまり空腹感を我慢しなくても良さそうなので、もっと嬉しい。
「貴方って頭の中まで胃袋ですのね」
 そんなミルナリスの言葉は少し痛かったが、ソルティーがどんなに彼女にせがまれても何もあげなかったのを思い出すと、悪口よりも先に舌が出せた。

 恒河沙と須臾がこれほどまでに高い山道を歩くのは実は初めてで、標高が高くなる度に後ろを振り返り、溢れんばかりの感動を体現した。
 飛べない者には、こうして世界を見下ろす事が殆どない。
 切り立った崖や、一度だけ見た滝には言葉も失われた。
 山を崇拝する者は多い。それは神を崇拝する事とは違い、自分達を常に見下ろす山の頂に、夢を馳せるからかも知れない。
「綺麗だね……」
 緑豊かな大地を見下ろし、言葉少なに須臾が語る。
 雲の切れ間から覗く眼下に広がった世界は、ただただ美しかった。
 須臾の言葉に恒河沙は何度も頷き、ふと後ろにいるソルティーに視線を投げかけた。
 色のない世界。こんなに美しい世界が、彼には枯れて見えるのが悔しい。
――見せたいのに……。
 どう伝えれば自分の見たそのままを彼に教えられるのか。自分の目をあげて、そうする事で彼が色を取り戻せるなら、何時でもその用意は出来ている。
 見つめ返してくれたソルティーは微笑むだけだ。
「お主達は何時までその様にして居るつもりだ。陽が暮れるまでに、もう少し開けた所まで行かねばならぬのだぞ」
 なかなか地上から目を反らせない二人に向かってハーパーが檄を飛ばし、やっと一行の脚は前に向かった。
「恒河沙、お前が気にする事じゃないから」
 自分の横に追い付いた恒河沙に、口にしなくても語りかけてきた事に、ソルティーは感謝を込めて言葉にする。
「だから、私の代わりに見てくれれば良い。今の美しい世界を、お前が私の代わりに覚えていてくれ」
「ソルティー……。判った、一杯見る。一杯覚えるっ!」
「貴方のその頭で覚えきられるかしら? ソルティーもその様な事は、私に言って下されば宜しいのに。私のこの溢れる知識の泉は、全てお使い下さいませ」
 恒河沙を睨め付けてミルナリスが艶のある声を出す。
「俺覚えられるもんっ! ソルティーが俺にそう言ったんだから出来るっ!」
「あらそうですか? では精々、その頭の許容範囲が無くならない程度にお頑張りあそばされませ」
「頑張らなくても出来るっ!!」
 熾烈な睨み合いに後方のハーパーと須臾は、溜息混じりに首を振り、馬鹿らしい三人のやり取りに肩を落とす。
 それでも口を挟まないのは、溜息の後に笑えてしまったからだ。
 後どれだけこうしていられるか判らない。
 だが、今のこの楽しいかも知れない光景を、わざわざ潰してしまうのは惜しいと感じた。





 クハン越えを漸く半分ほど消化し、下りへと道は変わった。
 時折急ぐような商人の一団と何度かすれ違った程度で、普通の旅人とはあまり出会さなかったが、その事に大した理由は無い。賊の出没する危険を伴う山越えより、少し時間をかけても安全な道を取るのが、普通の考えだ。
「それにしても、意外と下りの方が体力使うよね」
 しみじみと漏らす須臾に全員が頷く。
 それは下りだからだと言う所為ばかりではないだろう。昇りは緩やかな坂道ばかりだったが、下りになった途端山道は急に傾斜を激しくした。
 力を抜いて進めない山道は、どうしても疲れを感じさせ、周りに広がる景色などに心を奪われる余裕など無かった。


 山を下りだしてから二日目、昼食を終わらせてまた下り始めた一行だったが、ソルティーが立ち止まった為にその足を止めた。
 ソルティーはミルナリスを降ろし、前方に現れた小さな人影に目を向けた。
「誰だ彼奴?」
「敵だろうな。人では無さそうだ」
 まだ小さな点にしか見えないそれを、額に手を翳し眺める須臾にソルティーは答える。
 その言葉の後を継いだのはハーパーだった。
「矢張り現れたか」
 ハーパーの眼には、以前戦ったゲルクと言う妖魔が映っていた。死んだとは到底思っていなかったが、再び見えたいとも思ってもいない。
 しかしゆっくりだが確実に近付いてくる男は、肩に長い太刀を担ぎ不敵な笑みを浮かべ、実にやる気満々の様子であった。
「よお」
 丁度声の届く所で足を止めたゲルクは、まるで気心の知れた相手に出逢った様に片手を上げ、薄気味の悪い笑みをソルティー達にも見せた。
 此処まで近付けば、須臾や恒河沙の目にも彼が人では無い事が見て取れた。
 彼の眼球の代わりのどす黒い蠢く何か。彼の胸から首にかけて浮かぶ、本人の物では有り得ない、引きつった色違いの皮膚。それらがはっきりと人ではない何かを伝え、敵で在る事の気配はアストアの森で対峙した妖魔以上だ。
 その気配を押し退けるように、恒河沙と須庚はソルティーの前に並び出た。
「何だよ何だよ、お姫様を護るみてぇに」
 嘲笑するゲルクは、真っ直ぐにソルティーだけを見つめていた。
「それとも何か? 俺一人をよってたかってどうにかするしか無いのか?」
「うぬ如きの言葉に惑わされると思っているのか。主には、その汚らしい指一本たりとも近づける訳にはいかぬ」
「おいおい、確かに手を洗ったのは随分と前だが、別に握手するつもりはねぇぜ? 俺が用のあるのはそいつの命だけだ。で、触るのは、こいつだけだ」
 真っ直ぐ太刀をソルティーに向け、小さく鍔鳴りを聞かせる。
「てめぇを始末しねぇ事には、彼奴に近づけやしねぇからな。それにそこの竜の旦那には、むかっ腹ついでの雪辱戦もある。此処にいる全員、死んで貰うぜ」
「ふざけんなっ! 誰がてめぇなんかに、ソルティーを殺させるかっ!!」