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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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 何かを考えて気を使ったと言うよりも寧ろ、予定していた時間から遅れてしまった事への、恒河沙達に対する謝罪を押し付けられたのだ。
 かといってこれ以上待たせるのも出来ず、ソルティーは複雑な心境で二人の元へ向かった。

 リタから預かっていた鍵で扉を開けると、身構えていた体当たりは無かった。
「恒河沙?」
 誰も居ない様子ではなく、恒河沙の気配のする部屋に向かう。
 途中の部屋は想像していた通りの有様で、それが原因かとも思ったが、テーブルの置かれている部屋の扉を開けると、ソルティーの考えは一転した。
――また何か言われたのか。
「恒河沙どうしたんだ?」
 テーブルの側で立ち尽くしたまま動かない恒河沙は、俯いて泣いている様だった。
 ミルナリスの姿はなく、出てくる気配も無かった。
「恒河沙?」
 声を掛けても俯いたままの頭に手を乗せながら、身を屈ませて彼の顔を伺う。
 そうして見た彼は目の周りを腫れ上がらせて、時折鼻を啜り上げる。
「どうしたんだ? またミルナリスに何か言われたのか?」
 その言葉に恒河沙は首を振って、ソルティーの服を掴んだ。
「彼奴…もう来ないって……。もう会わないって……」
 恒河沙は何とかそう呟くと、泣きはらした顔をソルティーの胸に押し当てた。
「一緒にいるの辛いって、嫌だって…」
「そうか、帰ったのか」
 湖にいる時にミルナリスの気配は感じなかったが、彼女ならばこちらに気付かせずに探る事などは容易い。
 そしてオレアディスの存在を知った今、ソルティーは必ずミルナリスに話をしなければならず、彼女はそれを拒んだのだろう。
「ソルティーの事好きなら居ればいいのに、俺、言ったのに。どうして居なくなんなくちゃなんないんだよ。……わかんないよ」
 考えても考えてもその答えは出てこなかった。
 女と男の差でもあるし、個人としての相違でもあり、恒河沙の考えが他とは逸脱している所為もある。どちらにしても二人の考えは真っ向から反する考えだった。
「一緒に居たら楽しい事だって、見付かるのに、辛くなくなるかも知れないのに……」
 ソルティーの傍に居るだけで満足な自分と、傍に居るだけでは満足できない彼女の違いが判らない。どうして自分から辛い方へと行くのか、判らないから苦しくなる。
 ミルナリスが何を持って別れを決意したのか、理解出来るソルティーは、答えの出せない事に戸惑う恒河沙の背に両腕を回した。
「辛さが無くならない事も在るよ。自分を振り向いてくれない人の近くに居続けるのは、ずっと辛さが続く事だよ」
「だって今までずっと彼奴居たじゃないか」
「これからもずっと同じ辛さを抱えるよりも、今終わらせたくなっただけなんだろ」
「でも……」
「これから先も私は彼女を愛せない。お前が居るから」
 その言葉に自分を見上げる彼に優しく微笑み、額に唇で触れた。
「他には要らない。私の方を向いてくれるお前だけが良い。それと同じ。彼女も自分の方を向かない私が、要らなくなっただけだよ。お前が気にする事じゃない」
「ソルティーは彼奴の事好きだった?」
「好きだったが、お前ほど想ってはいない。恒河沙は、私と須臾を同じに思う?」
 後ろ手に手近な椅子を用意し、其処に腰掛けて膝の上に恒河沙を座らせる。
 いつもならそれだけで少しは機嫌を良くする筈が、暗い表情はそのままだった。
「違う。だって須臾は一番の友達だし、ソルティーは一番好きな人だから……」
 恒河沙の答えに満足しながら、彼の頭を片手で引き寄せ胸に抱き締めた。
「私にとって彼女は、お前の須臾みたいな存在だよ。しかし彼女が欲しがったのは、友達の私じゃない。私にもどうする事も出来ない、彼女自身の問題だよ」
 ソルティーが求めたのは自分にない物を持つ存在であり、ミルナリスが求めたのは自分と同じ物を持つ存在。
 互いの事を理解しすぎた結果だとソルティーは思う。
 そして何より、彼女はこれから先自分の近くに居られない事実が出来た。これから先、彼女がしようとする行為を、ソルティーは決して見過ごせず、必ず阻止しなければならない。……彼女に刃を突き付けても。
「ソルティーは知ってた?」
 少しずつ落ち着きを取り戻してきた恒河沙が、ソルティーの肩に凭れながら別の事を思い出す。
「何を?」
「彼奴、前に死んでたって……」
「……ああ、知っていた」
「でも居るのに、体だって暖かかったのに。死ぬって居なくなる事だろ? 居るんなら、生きてるって事だろ? それなのに彼奴、自分が死んでるから、俺に在るのを持てないんだって。だから居なくなるんだって。ソルティーが俺のそれを選んだって。何の事か、ソルティーに分かる?」
 その時恒河沙がソルティーの顔を見なかったのは、運が良かったのかも知れない。もし見ていれば、どんなに不安を掻き立てられていただろうか。
 ソルティーは険しくなる顔を、目を瞑る事で落ち着かせ、ざわめく心を無理矢理ねじ伏せた。
「ミルナリスがそう言ったのなら、お前には何かが有るのだろう? でも、私には判らないよ。彼女が彼女の基準で比べた結果がそうでも、私の基準はそうじゃない」
 これ程動揺して言葉を選ぶ事はない。
 ミルナリスの言えた言葉が、自分には告げる勇気がないのだ。
「じゃあソルティーは俺の何処が好きなんだ?」
 ソルティーの動揺を余所に、新しい疑問に移った恒河沙に、ソルティーはいつの間にか入っていた力を抜く。
「全部……とは言い難いな。前を見ずに走る所とかは、あまり誉められないから」
「う……」
 記憶に新しい所を指摘され声を詰まらせる姿に、やっとソルティーは笑みを取り戻す。
「しかしその反対に、元気な所とかは好きだよ」
「えへへ……」
「でも、好きな所も誉められない所も、その全部が今のお前を作りだしているのだから、お前の総てが好きだと言えるな」
 その言葉が真実である誓いの様に、ソルティーは恒河沙の唇や頬に何度も触れた。
 自分本意の恋じゃなく、相手本意の愛し方。
 好きな所も嫌な所も全部を容認するのが、ソルティーの想いだ。ミルナリスとは違う形だ。
「俺も、ソルティーが全部好き」
 ソルティーの首に両腕を回してこれ以上ない程の笑顔を向ける。――だが一瞬だった。
「ソルティー…」
「ん?」
「眠い」
 どうやら寝ていなかった所為と、ほっとした所為で気が抜けてしまったらしい。恒河沙が眠気を宣言すれば、もう猶予はない。
「……ベッドは向こう」
 ソルティーが隣の部屋を指差す前に、恒河沙の体はずるずると下がり始めた。
 慌てて支えた腕の中で、恒河沙は既に寝息をたてていた。
「おいおい……」
 熟睡している恒河沙を抱いたまま、しっかりと首に廻った腕だけは維持されているのに溜息を吐く。
 暫くどうしようかと考えた結果、須臾が帰ってくるまで此処で待つ事にした。
――襲うぞ…ったく……。
 そう思いながらも、感じる恒河沙の温もりと重みに、ソルティーは優しい笑みを浮かべた。


episode.34 fin