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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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 須臾は少しだけ嫌そうに表情を顰め、湖の方を向いて歩き出す。
 湖面を見下ろし、小さく溜息を吐き出してから、湖面に映る自分に向けての声が掛けられた。
「オレアディス来て」
 須臾の呟きにも似たたった一言に、湖面は激しく光を放った。
 暗くなりつつある周囲を明るく照らし出し、水面にさざめきが沸き立つ。その光は小さな無数の粒となり、さざめきが納まると同時に人の形となった。
 優しい微笑みを湛えた半透明の女性の姿は美しく、汚れ無き清廉を漂わせる。
「久しぶりだね」
 皮肉を感じさせる須臾の言葉に彼女は微笑むだけだ。
 それが気に食わないのか、須臾は肩を落とすと、後ろにいたリタに手を差し伸べる。
「おいで」
 そう言われても、リタは突然現れた力在る者を前にして脅えを隠せない。
 須庚はそんな彼女に優しく微笑み掛け、手を握ってオレアディスの前に導いた。
「オレアディス、リタを婆の所まで連れていってくれないかな。僕の大事な人なんだ」
 何があったかも語らず、須臾は神に向かって用件だけを伝えた。
 それをするのが当たり前の様に、お願いではなく命令に近いその言葉に、戸惑わなかったのは、言う者と言われた者だけだ。
 オレアディスは微かに頷くと、片手を横に上げた。
 小さな力の流れが水面に流れると、オレアディスの傍らに別の女性が現れる。矢張り透けた体を持つ精霊だった。
“私が責任を持ちまして”
「お願い。――リタ、相手は一寸ばかり嫌味な婆だけど、絶対に君を護ってくれる。だから僕が帰るまで、少しの間我慢して」
「須臾……」
 須臾の言葉に漸くソルティーも、彼女を連れてきた彼の意味を知った。
 此処では危険なのは誰もが理解しているが、リタ自身が跳躍を使っても、行った場所にしか行けないならば限界がある。だが、風壁さえも隔てた他の大陸なら、それも空間を繋げての移動ならば、この大陸の彼女の足取りは一瞬で消えてしまう。
 確かにこれ以上の秘策は無いだろう。現存する神を顎で使うような男が居ると、誰も想像できないのと同じに。
「じゃあね、気を付けて」
「須臾も……、必ず迎えに来て」
「判ってる」
 真剣に頷いて見せた須庚は、リタを精霊に預け、彼女が消えるのをしっかりと見届ける。
 出来れば傍に置いて護るのが、男として一番良いに決まっている。しかし須臾が完全を持ってそれが出来るのはそう多くはない。
 リタの妖魔としての性よりも前に、今は傭兵として放棄できない立場に居るし、放棄したくもなかった。
 男として護るべきは女。しかし傭兵として護るべきは主人だ。
 そしてその主人に対して、いや、最早友人となった彼に対しての礼節として、須臾は彼に同行を求めた。
「ソルティー」
 決意を持って須臾は振り返りながらソルティーを呼んだ。
 彼は目に見えるほどに表情は変えていなかったが、僅かだが驚いている気配が感じられた。
 恐らく今は、自分が目にしている現実の光景に、考えを巡らせているに違いなかった。
 何故須臾の導きにより神が現れ、何故彼の頼みを何の誓約も無しに行うのか。
 理由は様々な形で浮かんでいる筈だ。このまま放っておいても、時を待たずして必ずソルティーは答えを見つけだすだろう。
 須臾はそう判っているからこそ、彼が正確な答えを見つける前に解答を口にした。
 オレアディスを背に彼女を親指で指し示しながら。
「紹介する、恒河沙の母親だ」
「なっ?!」
 須臾の簡単な説明による驚愕が一瞬でソルティーを包み込み、言葉を失わせた。
 しかし須臾の口調は堅く、冗談を言っている風にも取れなかった。
「正真正銘、水の精霊神オレアディスが恒河沙の母親だよ。まあその時はイェツリだったけど、神様の一人なのには変わりがない」
 須臾の言葉にオレアディスは微笑みを浮かべるだけで、何処か存在感がない。
 ソルティーは驚きをそのままに彼女を見つめ、彼女は微かに頷いた。
 その仕草にさえもソルティーは我を失いそうになり、震えながらも寸前で押し堪えた。
「恒河沙はこの事を……知っている筈がないな……」
「勿論。黙っているのが僕とオレアディスの交わした約束だ。だからソルティーにも黙っていて欲しい」
――黙っていろ? 言える筈がない。
 額に手を当てながらソルティーは内心の動揺を、どう処理すればいいのか迷った。
――須臾は阿河沙の実態を知らない筈だ。
 恒河沙が他の子供とは違う事実も、母親の正体を知っていたからこそ、有りの儘に受け止められていたのだろう。
 一人で来ると言っていたのを翻し同行を頼んできたのも、彼なりのケジメの一環なのかも知れない。もうソルティーに恒河沙の事を秘密にしておく必要はないと。
 少なくとも先刻までの須庚の表情はその意思が見え隠れし、もしもソルティーの知る事まで知っていれば、こうも落ち着いてはいられなかったはずだ。
 だからこそソルティーは、ざわめく胸中を何としても鎮めなければならなかった。
 しかしどちらの事実も知らずに、ただ自分達が帰ってくるのを待っているだろう恒河沙の姿を思い浮かべた瞬間に、堪えきれない激しい感情が突き上げ、ソルティーは睨み付ける様にオレアディスに向かって声を張り上げた。
「貴方は阿河沙の事を知っているのか!」
 爆発しそうな気持ちをぶつけるソルティーに、オレアディスの表情は悲しみに曇っていく。そして静かに頷いた。
「何を考えているんだっ!」
 彼女の仕種にソルティーは拳を握り締める。その姿や、怒りに任せた言葉も須庚が聞いていると判っていながら、どうしても止められない。
「人の領域にまで降り立ち、あの子に何を与えるっ!!」
「ソルティー?」
「神でありながら、領域を侵してまで何をあの子に科すつもりだっ! 知っていながらどうして護ってやれないんだっ!!」
 何も答えようとしないオレアディスに苛立ち、足を進めながらソルティーは剣に手を掛けた。
「ソルティーッ?!」
 咄嗟に須臾が体で止めなければ、本気で斬りつけてしまう所だっただろう。
 オレアディスはただソルティーを見つめるだけ。逃げる事もせず、語る事もしない。それが余計に腹立たしかった。
 そしてそれは自分に対しての怒りでもあった。
 巻き込んだのは自分だ。手放せないのも、真実を語れないのも、総てが自分だ。
 ただ、出逢わなければそれで済んだという問題でもない。
 ソルティーが居ても居なくても、恒河沙に一欠片の人としての血が流れていないのなら、間違いなく同じ結果が用意されていた。それが許せない。
「神であるからと何をしても許されると思っているのかっ! 神であるなら、どうしてあの子を人として産んでやらなかったんだっ!!」
 もしもそれが叶っていたのなら、これ程苦しい思いをしなくても済んだ筈だ。
 その息苦しいまでの胸の痛みから、自然と涙がこぼれ落ちた。
「答えろっ! 答えてくれっ!」
 ソルティーがオレアディスに差し出した手の先には、彼と同じ苦悩を浮かばせた顔がある。
 須臾に止められ、近付く事の出来ない姿が霞む。
「消えるなっ! 逃げずに答えろっ!! 答えてくれ……」
 少しずつ薄れていく光にソルティーは何度も訴えた。
 しかし答えは無く、湖面に浮かぶ姿は水泡へとなった。