刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
episode.34
この世界は、創られた世界である。しかし世界を創り出した存在を、人は知らない。己を支える大地が、何処に存在するかも、人は気付かない。
風壁が世界を分かち、人と精霊が共に存在できない、理の力のみが世界を動かす。
これら全てに付きまとう謎を、数え切れない多くの者達が挑み続け、誰も答えを得られないままに終わりを迎える。
何を意味するのか誰も知る事が出来ないのは、それを世界が必要としないからかも知れない。だからこそ誰も、目的の場所へ辿り着けないのだろう。
世界は創られている。人も物も、そして思考する事でさえも。――ならば答えは、何よりもまず先にある。
これがこの世界。それで終わる謎なのだ。
* * * *
リグスハバリの中でもブリュート以上に、足の速い動物は居ない。
それ程大きくもない体だが、人一人乗せて一昼夜走らせた位では、びくともしない強靱な足腰を持つそれを、ソルティーと須臾は殆ど休みも無く走らせていた。
須臾の後ろにはリタも跨り、向かい来る風を受ける。
三人が向かっているのはソートヴァレリ湖。
リタの部屋を借りる事になってから二日目にミルナリスが戻り、恒河沙を彼女に預けての進行だった。
当初は自分一人で湖に向かう筈だった須臾が、リタを連れて行くと決めたのは、彼女を旅に連れて行けないと判断してからだった。
彼女が須庚やソルティーに語った妖魔達の動向は、これまでに想像してきた物の裏付けとなった。
妖魔には統率された動きはなかったが、実際にも阿河沙の元に集められて命令を下されたわけではない。少なくとも彼女の前に突然現れたのは、地の精霊だった。以前火の精霊コンティルスが語ったように、シルヴァステルに与しているのはグリューメなのだろう。
だがそこに阿河沙が居るのもまた確定されてしまったのは、バルバラとアガシャしか知らない話を、使者が口にしたからだった。
出会ってからの年月を聞けば、二人が出会ったのは十年ほど前という、須庚達には驚くべき内容でもあった。
それも当時の様子を聞けば聞くほど、須庚の知る阿河沙なのは間違いない。
湖に近付く者達を次々と殺して喰らっていたバルバラを、どこかに行く途中だったアガシャが付近の住人に腕を見込まれ討伐に赴いたらしい。しかし彼は残虐な妖魔を殺しはせず、逆に彼女を封印していた湖から解き放った。
「私のあの姿を見ても顔色一つ変えず、ただ黙って傍にいてくれたの。何日も。殺そうと近付けば、じっとあの深い想いの詰まった瞳で見つめられて、何も出来なかった」
「やっぱり何も言わないか、あの人らしいけど」
僅かな嫉妬を忍ばせながら須庚が苦笑いをすれば、彼女は小さく首を横に振った。
「一度だけ。殺す為より、生きる為にした方がいいって。妖魔を相手に止めないのよ、本当に呆れたわ。……だけど、それで私はリタとしての時間を増やす事が出来たの。結果はあまり変わらなかったけど。でもアガシャは、私の知っている彼ではなくなってしまったのね……」
あのアガシャが姿を現さずに誰かを殺せと命令するだろうか。たった数日だけの間柄でも伝わる物は確かにあり、彼はそんな男ではないと思っていた。――そんな疑問は彼女にもあった。しかしそれ以上に彼女にとってはアガシャは絶対的な存在であり、疑う気持ちを押し殺した。
だが須庚の思い出話が正しく彼女の知るアガシャであり、最早地の精霊達の話に耳を傾けるつもりはない。
出来る事なら須庚達と共に旅をして、アガシャの真実を確かめたい。けれど妖魔は力を使えば使うほど餓えへの欲望を止められない性質があり、飢餓に陥った時には彼女自身、自分が何をするか判らない。そして彼女を満たすのは、絶望に満ちた男の魂。
須庚を想えばこそ、リタは彼との旅を辞退しなければならなかった。
とは言え裏切り者となった彼女を、地の精霊や他の妖魔が放っておく可能性は低く、それに対する秘策までもが、須庚曰くソートヴァレリにあるらしい。
出発する間際でソルティーにも同行を求めた理由は、まだ語られていない。ただそれが自分ではなく、恒河沙にとって重要な事になるのは、聞かずとも判っていた。
勿論残される恒河沙は嫌がったが、ソルティーがなんとか説き伏せ、明日には戻ると約束した。
だからわざわざ苦手なブリュートを借りてまで湖に向かっている。
ソルティーがずっと徒歩に拘っていたのは、何も乗馬が不得意だったからではない。僅かずつではあっても確実に衰えていく視界。いつかは完全に閉ざされてしまう状況を危ぶみ、悟らせない為にそうしていた。
一度は瑞姫によって調整された視界だが、カミオラの事件から急激に視界が悪くなってきていた。見えている限りつい自分の目に頼りがちになってしまい、あやふやな視界しか持たないソルティーには、ブリュートの速度は神経が磨り減る思いだった。
初めはリタが跳躍が出来ると進言したが、それはソルティーが断った。リタの魔法はあくまでも人の用いる魔法と代わりがない。ミルナリスの使う空間を繋げる物ではなく、ソルティーには負荷がありすぎた。
ソートヴァレリまでブリュートの脚で大凡半日。その間殆ど休憩も取らずに走らせ続けると、朱陽が沈み始める頃には崖の下に光放つ湖が見えた。
「良かった……」
須臾は眼下に広がる景色に胸を撫で下ろす。
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
リタの言葉に須臾は首を振ると、下に降りられる場所を求めてブリュートの向きを変えた。
丁度湖の外周を半周した位に下に降りられる場所を見付け、湖の側までブリュートで乗り付けると須臾達は地面に漸く足をつけた。
「大丈夫?」
リタではなくソルティーに向けられた言葉に、目頭を押さえながらの彼は、大丈夫だという意思表示で片手を挙げた。
恒河沙の胃袋を心地よく満たした良質の漁場でもあり、岸には幾つかの小舟が列を成していたが、周囲に人の居る気配はない。それを見渡して確認を終えた須庚は、満足そうに頷いた。
「ん。じゃあ時間もない事だし。リタ、手紙ちゃんと持ってきてる?」
「ええ。ほら此処に」
大きく開いた胸元からリタは一通の封筒を取り出した。
昨夜須臾が認め、彼女に手渡した物だ。
「無くしちゃ駄目だよ」
リタを抱き締めながら須臾が念押しすると、彼に判るように彼女は頷く。
「必ず帰るから、待っててね。他に男作っちゃ駄目だよ?」
「ええ。貴方が迎えに来てくれるのを待っているわ」
リタの返事に満足し、須臾は彼女を見つめる為に体を少しだけ離した。
リタは須臾の顔を忘れない様に見つめ、そっと彼の短くなった髪に触れた。
「ごめんなさい。本当は貴方の長い髪が好きだったのに」
願を掛けていると言った髪を、自分の心ない一言が奪ってしまった。どう償えば判らない彼女を須臾は笑顔で許す。
「良いんだ。願いは叶ったから、今度はリタを幸せにするって願掛けして伸ばすよ」
もう一度リタを抱き締め、その温もりを忘れない様にする。
暫く何も言わずに抱き合ったままだったが、須臾は名残惜しくなるのをぐっと堪えてリタから腕を放した。
「さて、呼びますか」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい