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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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――須臾ではないな。
 ふられるにしても口説き落とせたにしても、時間が中途半端だ。それに、気配が全く違う。
――妖魔でありませんわ、これは、魔族!
「ミルナリス、退け!」
 そうソルティーが言った瞬間、扉が吹き飛ばされ、続けざまに圧縮された大気の塊が迫った。
 自分の言葉に従って消えたミルナリスの方向に、恒河沙を抱き抱えてソルティーはベッドから飛び降り、その直後にベッドは四方からの見えない圧力によって潰された。
「死ね死ね、お前なんか死んじゃえ」
 薄闇に響く子供の声。
 ソルティーは自分に向けられている意識に、咄嗟に恒河沙の背中を突き飛ばし、自分はその逆の方向へと向かう。丁度先刻まで二人の居た空間が、一瞬歪みを見せまた元に戻る。
「死んじゃえ死んじゃえ」
「んなろっ!」
 ソルティーの避ける方向に圧力を掛ける相手に、はっきりと覚醒した恒河沙が、大剣を掴んで飛び掛かる。
「アハハアハハ」
「?!」
 恒河沙の大剣を笑いながら避けるその者は、くるりと背を向けると廊下を走り抜けていった。
 外の光を通さない廊下には明かりはなく、暗闇に相手の黒いマントが溶けて消える。
「おいでおいで、追ってこないと街を襲うよ。一杯一杯人が死ぬよ。みんなみんな死んじゃうよ」
 態と気配を残し逃げるのは、それが罠だと教えている。それでもそうするのは、それ程自信があるからだろう。
「くそっ!」
「追うしか無さそうだな、行くぞ」
「うん」
 気配は宿の外へと移り、ソルティー達を待っていた。
 二人はどんな罠が仕掛けられているのか想像できないまま、挑発する気配を追った。
 宿の外に出ると、気配は東地区の奥へと向かっていた。それは先日須臾とハーパーが調べてきた、次の建設予定地のある場所だ。
 走って気配を追うソルティーの横の空中に、ミルナリスが現れる。
 飛んでいると言うよりも、浮かんだまま移動している感じの彼女に、ソルティーは前を向いたまま声を掛けた。
「ミルナリス、あれは本当に魔族なのか?」
 何処かそう思うには違和感のつきまとう疑問には、直ぐに答えがもたらされた。
「はい。厳密には、グリークは狭間の者ですが」
「狭間の者?」
 これまでに聞いた事の無い名称に向けて疑問を呈するソルティーに、ミルナリスは険しい表情になる。
「言葉通りですわ。樹霊と魔族の狭間、分かたれた時にどちらにも成りきれなかった力無き者」
 ミルナリスの言葉は苦しい胸の内を吐露するかのように、一際硬い声にして吐き出され、それに反応したようにソルティーの前を見据える視線が険しさを増す。
 彼はその説明で過去の痛みと同時に話を理解できたが、恒河沙だけがやはり理解できずに声を上げた。
「力が無い? あれでぇ?」
「力の意味が違いますわ。狭間の者達は一度死にかけた事によって、精霊にとっては最も重要な、世界に存在するという理念……判りませんわね、基本の力を狂わされてしまった者です」
「判んねえ」
「でしょうね。一般的には精霊には肉体と呼べる物はありませんが、樹霊にはありました。その肉体を作るという事が出来なくなってしまった事を、私達は弱いと言います」
「でも体あったんじゃ」
「あのマントの中に、果たして体があるかどうか……」
「げっ、お化けっ?!」
「そうですわね、精霊のお化け……。兎も角、決して攻撃する力が弱い者ではありませんわ」
 曲がりくねりながら微かな笑い声だけを響かせるグリークの気配は、途絶えることなく三人を導いていく。
 自分にさえも真剣に説明を続けるミルナリスの様子を、恒河沙なりにも厳しい状況だと感じさせる。
「婆がどうにか出来ないのか? 仲間みたいなものなんだろ?」
「無茶は言わないで。狭間の者が属性付加を行えないからと言って、私とグリークは同質の力を持っているのですわ。我々の行使する力は空間そのものです。その力をぶつけ合えば、悪くすればこの辺り一帯が無に帰してしまいます」
 恒河沙の言葉を巫山戯ていると感じながら、それでも事実だけしか口にしないのは、それだけその事実が危険を帯びていると言う事だ。
 他の属性精霊ならまだ良かった。
 物質に関連する攻撃属性を持つ精霊ならば、喩え高位精霊同士の争いであっても、破壊力が倍加する位で済むし、反属性なら相殺される。しかし物質を介さない魔族と命官クシャスラ配下の精霊は、この世界の物質を介さない分、その精霊の命を失いかねない結果を導き出す場合もある。
 そして狭間の者であるグリークには、他の精霊の様な主に対する盟約も、理の力に対する理を狂いの中に持っていない。つまりは理による足枷を持たない為に、精霊としての役割を無にした存在だ。
「う……ごめん」
「判れば宜しゅう御座います。ですから私は一切手出しは出来ません」
「判っている。ミルナリスは下がっていてくれ」
「はい。でも、出来る事ならグリークは助けて戴けませんか。あの子は本当に子供なのです。生まれて直ぐに狭間の者となり、事の次第を知らないのです」
「出来る事はしてみよう」
 ミルナリスには喩え狭間の者であろうとも仲間なのだろう。――いや、狭間の者だからこそ助けたいという彼女の気持ちは、少なくともソルティーにだけは伝わっていた。
 自らが選択肢を持たない精霊が、選ばれなかった結果が狭間の者。
 それがどれ程辛く苦しい事か、自分に置き換えなくとも判る。
「有り難う御座います。では」
 ソルティーの言葉に満足して、言葉の最後と同時にミルナリスは姿を消した。
 グリークの気配はまだ先へと続き、早く来いと手招きをしている様だ。
「ソルティー……」
「何だ?」
 細い横道に入り、速度を落とす事無くソルティーは恒河沙へと視線を送る。
「彼奴、飛べるじゃん」
 口を尖らせてまで恒河沙が言った事に、思わず体勢を崩しそうになった。
「彼奴ずるだ。飛べんのにソルティーに抱っこして貰って、ずるい」
 そうと知っていれば、何が何でも力尽くで引きずり降ろしていた。しなかったのは、やっぱり何処か「小さいから」なんだと同情していたのに、思いっきり裏切られた感じである。
 自分よりも小さい。恒河沙には重要な事なのだ。
「今度お前にもしてあげるよ」
「抱っこ?」
「ああ……」
「やった! んじゃ、さっさと終わらそ」
 単純明快に喜ぶと、足取りも軽やかだ。
 しかし恒河沙が言う様に、さっさと事は終わらない。そんな予感をソルティーは感じていた。



 エニの東地区の一番端は、丁度何かの境界線が引かれているかの様に、街と平地が別れている。
 後ろを振り向けば居住区の高い壁が立ち並び、前には視界を遮る物のない平地だけがある。所々に雑草が生え、小石が時たまつま先をかすめる位だ。
「消えた?」
 平地に出た途端グリークの気配が消え、蒼陽の青白い明かりに照らされる其処には、誰も居なかった。
「いや…ッ!」
 突如現れた無数の炎にソルティーは剣を抜いた。その前に恒河沙の大剣が、直線的に飛んできた炎の群を大剣で払い除ける。
 炎の延長線上には人影も気配すらない。
「矢張り仲間が居たか」
 グリークに炎は出せない。