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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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episode.33


 昔々の物語には多くの戒めと教訓が込められ、僅かな真実が宿っている。それは何時作られた物語でも変わりなく、戒めと教訓と言う名の偽善にて覆い隠されるは、真か罪か。
 恐ろしい魔物と、それを滅ぼす勇者。か弱き者は見ているだけ。
 悪しき者、気高き者、そしてか弱き者。それらさえ有れば成り立つ虚構の世界。
 悪は悪、善は善。何故、如何に、ならばが在ってはならない世界。

 悪しき者は、何故悪しき道へと進んだの? 勇者はそれからどうなった? 必ず訪れる幸福は誰の為?

 口にしてはならない物語。昔々に隠された、忌まわしき偽りの世界。


 * * * *


 昼近くになってから須臾を送り出す際にリタが最後に言った言葉は、
「今夜も此処に来て」
 どういう気持ちからこの言葉を口に出来るのか、ふられた筈の須臾には判らなかった。
 しかし須臾は、彼女にしっかりと頷いてから扉を閉めてしまった。

 須臾が帰って直ぐに、部屋の中央にグリークが現れた。
 何もない空間に波紋を呼び、その中から現れた彼をリタは蔑む眼差しで見下ろす。
「どうしてどうして? 違うよ、いつものバルバラじゃないよ」
 焦りなのか悲しみなのか判らない。
 グリークの感情入り交じった声は普段よりも甲高く響き、リタは彼から目を反らし通り過ぎると、須臾の飲み残した酒を新しいグラスに注いだ。
「バルバラバルバラ、何か言って。教えて教えてよ、バルバラ」
「煩いっ! 何故私のする事に一々お前が口を挟む。お前には、私の行動に口出しする理由など無いっ!」
「だってだって、ボクはバルバラの仲間……」
 グリークが総てを言い終わる前に、リタは一気に飲み干して空になったグラスを投げ、それは彼の足下で砕け散った。
 ガラスの破片がマントにぶつかり、グリークは息を詰める様にマントに覆われた肩を震わせ、恐る恐るリタの方へ顔を向けた。
「誰が仲間だって? 出来損ないの精霊、それも狭間の者でしかないお前と、妖魔である私が仲間? 笑わせる事をお言いでないよ」
 リタは侮蔑の眼差しを浮かべながらゆっくりと彼に近付き、跪いて彼のフードに手を掛けようとする。しかしフードの縁に指がかけられた瞬間、彼の震える手が力一杯振り払うと、後ろへと逃げて距離を作った。
 その姿を見てリタは微笑む。
「ほら御覧、そんな布にくるまっていなければ姿を現せないお前に何が出来る。お前に出来るのは、その僅かな隙間からこの世界を羨むだけ。お前は私に言われた通りに動けばそれ良いのよ」
 再び立ち上がったリタは、またゆっくりとグリークへと歩み寄っていくが、彼はそれが見えていないのか立ち竦んだまま動かない。
「…でも…でも、ボクはバルバラの役に立ちたいんだ。ボクがボクが――ッ?!」
 懸命に訴えるグリークの言葉にも、彼女の嫌悪の眼差しはより一層色濃くなり、振り上げた腕が彼の小さな体を打ち払った。
 それ程力が銜えられた一撃ではなかったが、彼の体は壁に叩き付けられ床に倒れてしまう。
 それでも足りないのか、床を這う彼のマントを踏み締める。
「これでも私の役に立ちたいのか?」
 吐き捨てるリタの言葉にマントが蠢き、弱々しく彼女の足に触れる。
「ボクは……クは…バルバラ……」
 今にも泣き声に変わりそうな声。必死に気持ちを伝えようとする言葉は、先には続かなかった。
「私が好きとでも言うの?」
「バルバラ…バルバラ……」
 這い昇ってくるマントの隙間から闇が見える。
「私が見えないくせに」
「…バルバラ……」
「お前に何が見えるっ! 私の姿も、私の声も本当は知らないくせにっ!」
 希薄な存在しか持たないマント越しのグリークを感じながら、リタは払う事もせずに叫ぶ。
「……バルバラ…綺麗だよ……凄く…凄く…綺麗な…」
 呟く様に、呻く様にグリークは言い続ける。
 グリークの思考に浮かぶのは、バルバラでもなくリタでもない、この世界に存在しない美しい女性。
「煩いっ煩いっ煩いっ!! 私を語るならば私を見ろっ!! お前に私を映す目を作ってから、私のこの声を聞く耳を作ってから言えっ!!」
 グリークの声から逃げる様に耳を塞ぎ、赤く染まっていく髪を振り乱す。
 震える腕が二つに分かれ、苦悶を浮かべる顔が歪んでいく。
 リタからバルバラへと姿を変え、漸くその四本の腕がグリークを抱き締めた。
「可哀想なグリーク。狂った神の戯れに壊された、哀れな子供。彼奴等を殺せば、きっと世界は変わる。アガシャ様が変えてくれる」
「バルバラ……バルバラ、好きだよボクはバルバラが大好きだよ……」
「ああ、ありがとう。お前とアガシャ様だけがそう言ってくれる。――誰一人…誰一人、私を愛せる者など居るものか」
 それは愛して欲しいと言う言葉。
 深く悲しみの渦巻く呪いの言葉。
「バルバラ……綺麗だよ……」



 須臾が宿に戻っても、部屋には誰も居なかった。
 一応宿の男に確かめて、三人が買い物に出掛けたと聞いて胸を撫で下ろし、彼等が戻るのを待った。
 その間に思い浮かべるのはリタの事だけだ。
 何度考えても、今まで知り合った女性と彼女は違う。自分本意だった今までとは違う、相手に委ねたい感情だった。
 今までどこかに在った、自分さえと言う気持ちがリタには浮かんでこない。ただ彼女の気持ちが大事だと思えるのだ。
「やっぱりお嫁さんは拙かったかな」
 ずっと思い描いていたのは、この世界のどこかに居る筈の、自分が心から愛せる女性に出逢った時には、相手も自分の事をそう思うだろうだった。出逢えば必ず、身も心も一緒になれると信じていた。
 まさかあそこまで笑い飛ばされるなんて、正直思いもよらなかった。
 恐らく使われていない筈のベッドに転がりながら、自分の何処が間違っていたのかを唸りながら探す。が、思いつかない。
「顔も良いし、性格だって良いのに。それにアッチもかなり相性は良かったと思う。……多分。まさか全然好みじゃない男を、リタが相手にするとも思えないし……う〜ん」
 しかも今夜も会ってくれると言う事が、どうしても良い方に考える要因にも成る。
 彼女が考えている事が、いまいち理解出来なかった。
「ソルティーに相談……しても無理か。僕にも判らない女性の心を、あの野暮天が判る筈無いからねぇ」
 もしこの事を言えばどう言うのか、聞いてみたいと思う反面、聞きたくない言葉を聞かされるとかもと思う。
 それに、知識においては負けているが、殊女性に関しては自分が上だと自負がある。ソルティーには悪いが、対人関係を彼に相談する気にはなれなかった。
「はぁ〜〜どうするものか、須臾さん人生最大の大事件だねぇ」
 彼なりにかなり真剣であっても、ついつい今の自分の状態を楽しんでしまうのは、それに女性が絡んでいるからだろう。
 要は気の持ちよう。暗くなっても良くは成らないなら、明るく人生を楽しみたい。
 それが須臾の今までに学んだ結論だった。


 そうして漸くソルティー達が宿に戻ったのは、恒河沙の腹が満たされてからになった。よって須臾がベッドで転がりながら過ごした時間は、かなりとなる。
 勿論ミルナリスの髪には新しいリボンが、(ソルティーに結ばれた為に)少し歪に揺れていた。