刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
酒場の男達は、挙って須臾を馬鹿にした目で見ていた。それだけリタは、多くの男達に自分と同じ様な事をしてきたのだろう。だから誰も口を挟まない。誰かが自分達を同じ目に遭うのを、黙って余興の様に見つめるだけだ。
「判ってるんだけどね」
それでも納得して此処へ来たんだと自分に言い聞かせるように呟き、扉越しに微かに聞こえる水の音を聞きながら、悔しさを堪えて酒瓶の栓を抜いた。
「……ラ、バルバラ、良いの? 目的違うよ」
「煩いわね。仕方ないでしょ、まさかあんなにきっぱり、相手にされないなんて思わなかった。まあでも、一人でも引き離せばそれだけ事は楽に進む」
何も映っていない鏡に向かってリタは微笑む。
「でもでも、それなら先に殺そ。相手になんかしないで、殺しちゃお」
グリークの声だけが浴室に小さく響く。
「指図は受けないさ。これは私の気晴らし。本当の私を知った時に、歪んでいく男の顔を見る為の儀式なんだから」
「どうしてどうして、気にしなければいいのに。どうしてそんなに…」
「煩い、黙れ。お前なんかに私の気持ちが判るものか。私を理解出来るのは、私に手を差し出してくれたのは、あの人だけ」
「ボクはボクは……バルバラ…」
「消えろグリーク。お前の声は気分が悪い」
「バルバ」
リタの腕が鏡を叩き、声は消えた。
「誰にも判らない。醜く産まれた私の気持ちは、誰にも判る筈がない」
唇を噛み締め、リタは鏡を睨み付けた。
しかし彼女が睨む先には後ろの壁があるだけで、そこに美しい女性の姿はどこにも映されてはいなかった。
目が覚めた須臾が一番初めに確かめたのは、隣に居るリタの姿だった。けれど顔を横に向けた瞬間に飛び込んできたのは、自分を覗き込む様にして微笑んでいる彼女の姿。
ホッと胸を撫で下ろしたくなる気持ちと共に、行為を済ませた後に自分だけが眠ってしまった事が恥ずかしくて、思わずばつの悪い表情となってしまう。
「どうしたの?」
まだ外には夜の気配しかない。
リタは少しも眠そうな顔は見せず、代わりに不思議そうな顔を浮かべながら、上掛けで胸までを隠しつつゆっくりと体を起こした。
「あ、いや、居ない様な気がして……」
「須臾を残して私だけが出ていくの? 私の部屋なのに、おかしな話ね?」
「アハハ…そうだよね。そんな筈無いよね」
照れ笑いを隠す為に須庚も体を起こし、邪魔な髪を横に流す。
「随分と長いのね、何時から伸ばしているの?」
リタは須臾の髪を一房手にして、悪戯をする様に弱く引っ張った。
「産まれた時から、ずっと。……髪の長い男って嫌い?」
昔から髪には力が宿るとされていて伸ばしている者も多いが、須臾ほど長い者はそう多くない。実際この髪の所為で、口説こうとした女性に嫌がられた事が少なからずある。だから彼女と肌を重ねながらも、つい不安が口を突いて出てしまう。
リタは須臾の気持ちを感じたのか、指に彼の髪を絡ませ優しく微笑んだ。
「好きよ。須臾の髪は特に綺麗から」
「良かった。一寸これ願掛けしてるから、簡単には切れないんだよね。でも、リタの方が綺麗だよ。真っ直ぐだし、まるで汚れのない泉の水がそのままリタに流れている様だ」
須庚も彼女の髪を手に取り、目を閉じてその流れに口付けをする。
ただ、敬意と愛情を込める口付けに対してのリタの眼差しは冷たく、言葉からも急に温もりが失われていった。
「詩人のようね須庚は。何時もそんな言葉で口説くの?」
「思った事しか口にしない。男の嘘は直ぐに女性にはばれてしまうから、心から思った事だけを僕は口にするよ」
「それこそ嘘に聞こえるわ。ベッドの上の睦言は、何時も真実を隠してしまうもの」
須臾の腕に自分の腕を絡ませて、顔の横にある彼の肩口にキスをする。それと同時に彼の手を柔らかな胸に押し当てさせ、眼差しは誘惑へと変わっていった。
「でも、体は嘘を言わない。言葉は幾つもの真実を奏でるけれど、体が語る真実は一つだけ。其処には真実も嘘もないわ」
それ以外は必要ないと語るリタに、須臾は寂しさを瞳に浮かべた。
リタの胸から手を退かせ、俯いて両手を握り締めた。
須臾の様子をまた不思議そうに見つめるリタに、彼はもう一度顔を向けた。
「ねえ、口説いても良い?」
思い詰めた表情で真剣に語られた言葉に、一瞬リタの顔が驚きを表したが、直ぐに表面だけの微笑みに変わり、喉を鳴らす笑い声を部屋に響かせた。
「口説く? 今更? 私、須臾に口説かれたから、部屋に連れてきたのよ」
口元に手を当てて笑うリタに、須臾は首を振った。
「違うよ」
「違うって何が?」
「だから、その……。僕の……」
窓から差し込む蒼陽の明かりでも、須臾の顔が徐々に赤くなっていくのが判る。
何度も躊躇いながら言葉を出そうとする須臾を、リタは黙って見つめるだけだ。
「僕の…お嫁さんに……なって欲しいんだ……」
消え入りそうな言葉を出す須臾の口の中はからからになって、緊張した体は微かに震えていた。
「お嫁さん?」
聞き違いを確かめるリタに、須臾は力強く頷いた。
暫くそのままで時間が過ぎて、須臾がもう一度何かを言い前に、リタが肩を震わせて笑いだした。
「リタ……」
「ごめんなさい…。でも、あまりにも……」
「そんなに可笑しい事言った? 真剣に僕は……」
流石にここまで笑われるとは思っていなかっただけに、なかなか納まらないリタの笑い声が、徐々に須庚の傷ついた顔を隠すように俯かせていく。
リタもそうなって初めて彼の本気を感じたのか、笑うのを止めて優しく彼の頭を撫でた。
「ごめんなさい須臾。でも出逢ったばかりなのに、そんな事を言うなんて」
「本気で思ったから言ったんじゃないか。初めてそう思ったから、リタが好きだから言ったんだよ」
言い募る言葉は拗ねた子供だった。
恐らくリタを相手にこの様な反応をする者は、これまで居なかったのだろう。彼女は少しの間だ様子を見るように黙り込み、それから須庚の微かに膨れた頬に手を当て、そっと自分の方へと向かせた。
「初めて?」
慰める為の笑みを見せても、須臾の顔からは曇りは晴れない。
「初めてだよ」
ここに来て思うのはこんな筈じゃなかったのにだけだ。
これまでずっと失敗らしい失敗はなく、ソルティーの不器用さもからかい続けてきた。自分ならもっと上手に出来ると思い、そう信じてきた。
なのに今は、気の利いた言葉も、彼女の心を動かす気障な言葉の一つも浮かばない。
それどころか、言葉を重ねていく度に、稚拙な言葉だけになっていく。しかし嬉しい事に、今の須庚をリタは再度笑うような事はなく、だが、須庚の期待通りではない答えを出した。
「そう、ならこれから同じ様な事を想う人が現れるわ」
「現れない。現れたとしても、リタじゃないと嫌だ。此処がそう言うんだ」
リタの手を取り、今度は自分の胸に当てる。
どうすれば信じて貰えるのか判らなかった。言葉にした様に、今までこんな気持ちを持った事はなかったし、まさか出逢えるとも思っていなかったから、どうしても手放したくないと思った。
「須臾のお嫁さんになる人は幸せね」
須臾の胸に触れた手を引きながら、子供の夢を後押しする様にリタは言った。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい