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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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「……ごめん」
「返す言葉も御座いませんわ」
 粗方の予想はしていたのだろう、二人は相手に責任の擦り付けあいはせず、謝ると直ぐにソルティーに言われる前に部屋の片づけを始めた。
――しかし、何をどうすればこんなに出来るんだ。
 安宿だったから良かったものの、これが高級宿屋で在れば調度品の一つや二つは序でに破壊されていた筈だ。
 体を使った喧嘩などした事のないソルティーには、理解出来ない有様だった。
「……あれ? 須臾は?」
 ぶちまけた鞄の中身を広いながら、恒河沙はソルティーだけを入れて閉じられた扉を見つめた。
「あ……ああ、彼奴は……」
 ソルティーは言葉を躊躇うと、先刻の事を思いだして軽く頭を掻いた。



 例の女性の詩が終わった後の須臾の呆気は、ソルティーが何を言っても治らなかった。
 ずっとカウンターで静かに酒を飲んでいる彼女を見続け、それだけで幸福に浸っている様子だった。
 しかし、突然弾かれた様に体を伸ばす須臾の視線の先に、此方に向かってゆっくりと歩いてくる彼女の姿があっては、流石にソルティーも驚いた。
――執念か……?
 彼女を見ていたのは何も須臾だけではない。
 殆ど何も語らず、包み込む空気で誰も近くに寄せ付けずに座る彼女を、大抵の男達は視界の片隅に入れていた。ソルティーの様に、彼女に興味を示さない男の方が少ない位だ。
 真っ直ぐに伸びた髪を揺らし、胸の谷間を見せ付け、足首まで隠しながら開いたスカートの裂け目から細く長い足を惜しみなく見せて歩く、少女の面影など一切捨て去った艶のある女。
――ミルナリスの方が良い女だったな。
 元気で陽気なミルナリスを光だとすれば、今自分達に近付く彼女は影だ。
 しかもソルティーには彼女を取り巻く雰囲気が、静かと言うよりも陰湿な物に感じて、須臾の様な良い印象は持てなかった。
――もう少し若ければ……。
 単純に好みも関係するだろうが。
「私、あまり見つめられるのは好きじゃないの。特に見ず知らずの男なら尚更」
 二人のテーブルの横に立った途端、彼女は指先で肩に掛かった髪を後ろに流し、視線だけは鋭く自分を見上げる須臾に送る。
「…ご、ごめん。あの、気を悪くさせるつもりは……」
 線の細さとは逆に迫力のある彼女に、須臾は完全に舞い上がった状態でしどろもどろになって言い訳を捜した。
 何時も余裕を持って女性に接する彼からは、考えられない現象だった。
 これでは店の手伝いをする少年でも、須庚の気持ちに察しが付くだろう。彼女の表情からもそれは当然の事と受け止めているのが感じられ、だからこそこうした強い態度で居られるのかも知れない。
 そんな男を操る事に長けていそうな空気は、あまりにも彼女の見た目に似合いすぎて、余計にソルティーから彼女に関する興味を退いていった。
「名前は?」
「須臾……」
「シュユ? そう、私はリタ。これで知り合いね。宜しくシュユ」
 表情だけを微笑みに変え、リタは須臾に向かって左手を差し出した。
「え…あ……此方こそ、宜しくリタ」
 須臾は焦りながらリタの手を握り返したが、彼女の要求はそうではなかったらしく、少し不快を現した。
「接吻はして戴けないのかしら?」
「えっ? あ…ごめん」
 完全にリタの手玉に取られている須臾は、慌てて彼女の指先に口付けをした。
 周りの男達はそれをにやにやと眺め、その事でこれが彼女の常套なのだと判る。
 須臾の行動に満足したリタは、今度はソルティーに視線を送り、先刻と同じ様な微笑みを見せる。
「貴方は?」
「………グルーナだが、知り合いになるつもりはないので、遠慮させて貰う」
 ソルティーはリタに見向きもせず、そう言い放つ。一瞬リタの表情が険しくなり、須臾が思わず立ち上がった。
「ソルティー!」
「良いのよ、気にしていないわシュユ。それに、意思の強い人は好きよ」
 まるで値踏みをする視線でソルティーを見つめ、直ぐに須臾へと向きを変え、彼の方に手を添わせる。
「ねぇ、今夜の出会いを祝して飲まない?」
 須臾の耳元に吐息を伝わせ、身に纏った香りを感じさせる。
「勿論構わないよ!」
「じゃあ、私のグラスを持ってくるわ。少しだけ待っててね」
 リタは触れるか触れないかの口付けを須臾の頬に交わし、先刻まで自分の居たカウンターに戻っていった。
 彼女の後ろ姿を熱っぽい視線で眺めながら、須臾は力尽きた様に椅子に腰を下ろした。
「……ソルティー…お願い……」
 須庚は顔をリタに向けたままで、彼女の唇の感触が残る頬を手でそっと押さえて溜息混じりの言葉を出す。
「……ったく、お前らしくないぞ。どう見ても向こうの方が上手だ」
「だから、だから良いんだよ、僕の理想だよ。女は男を手玉に取ってこそ輝くんだ」
「ハァ……、馬鹿だけは見るなよ」
 さっき聞いたご高説はどこへやら。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、付き合う気にもなれない。
 ソルティーはさっさと財布を取り出すと、中から数枚の金貨を取り出し須臾に渡した。
 そして自分はリタが戻ってくる前に須臾を残して酒場を後にしたのだ。

 勿論その後須臾がどうしたのかは判らない。

「そんなに綺麗だったの?」
「ん、まあ、須臾が好きそうな女性だとは思うが」
「本当に男の方って、だらしがないんですから。その方は、ただ酒が目当てに決まってますわ。それに気付かないなんて大馬鹿ですわ」
「そうなの?」
「さあ、どうかな?」
「そうに決まっていますわっ!」
 部屋の片づけもそっちのけで須臾の話に熱を注ぎ、結局ろくな掃除も出来ないままに街の灯りは数を減らし、その中にソルティー達の部屋も含まれていた。

 集られるのを承知で好みの女性を口説くのと、狭いベッドで両脇から飛び交う謗りを聞くのと、どちらが実のある過ごし方なのだろうか。
 ソルティーはほんの少しだけ須臾を羨みながら、自分の上で飛び交う手足に、疲れ切った溜息を漏らした。




 ソルティーがなんとか恒河沙とミルナリスを宥め賺して眠りに就かせた頃、須臾は貧民地区を見下ろす集合住居の一室に居た。
 無論リタの住まいだ。
「滅多に此処へは帰ってこないけれどね」
「どうして? 良い部屋じゃない」
 場所の割には一人で住むには広い部屋だった。
 見るからに高そうな家具を見渡し感想を言うと、リタは小さく笑う。
「もっと良い部屋を誰かが貸してくれるから。私、一人で眠るのは嫌いなの。好きな所に座ってて良いわよ。お酒用意してあげましょうか? 私が戻るまで暇でしょ?」
 他に男が居ると態と示唆する言葉と、これからする事への準備。男を揺さぶる計算が無いとは感じられないが、あまりにも自然に語られる言葉に須庚は何も言えなかった。
 そうしてリタは須臾にグラスと酒瓶を手渡すと、髪をかき上げながら浴室に向かった。
「……気紛れ、か」
 初めから本気で相手にされていないのは、誰に言われなくても気付く事だ。それでも少しでもきっかけを与えてくれたのなら、それに乗らなければ男じゃない。