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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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《あの日の事を忘れた訳ではない。私は今でもずっとあの日を背負っているし、捨てようなどとも思っていない。だから私は今でも此処にいる。しかし私はもうソルティアスではない。リーリアンの為だけに生きていた私ではないんだ。今の私は、この世界を護る為に生きていたい、ただの人間だ》
 その為にも恒河沙を手放したくないと思う。
 旅の始まりは復讐だけが原動力であり、希望の欠片さえも感じず、必要とさえもしていなかった。
 絶望しか感じないままに、ただ最期のみを目指すように先へと進む事は、あの忌まわしい闇の中と何ら変わりなく、この色を映さない眼のように一筋の光さえも見えていなかった。
《相手は男(お)の子ではありませぬか……。姫の代わりであるなら他にも》
《代わりなど要らない。アルスティーナの代わりが居ないように、あの子の代わりも居ない》
 真っ直ぐに自分を見つめてくる眼差しの強さも、楽しい事や嬉しい事をそのままの笑顔にして向けてくれる存在。
 嘗てはアルスティーナがそうであり、今は恒河沙がそうしてくれる。
 その彼の生きている世界を護りたい。ただそれだけの気持ちが、自分を強くしてくれる事に気付いた。
《…判らぬ……。我には判らぬ……》
 知らぬ間に大きくなってしまったソルティーとの距離に、ハーパーは何度も首を振る。自分の言葉に従わない彼に、悲しみが増す。変わってしまった彼に、苛立ちに似た何かが心に沸き上がる。
 リーリアンに固執していたのは、ハーパーの方かも知れない。――いや、元々リーリアンは竜族の国であり、その成り立ちを考えれば彼の国への思いはソルティーよりも強いのは当然だろう。
 だからこそソルティーに固執し、同じ気持ちを求めた。
 なのに彼は変わってしまった。国よりも、今の世界を取ると示す彼に無念さを感じた。
《無理に判れとは言わない。何をお前に言われようと、私はもう戻りたくない。お前の言う過去に縛られてまで、あの子を失いたくない》
《……主》
 ソルティアスはハーパーを見上げ、悲しみを感じさせる笑みを浮かべた。
《私は残り少ない命なんだ。だから、その少しの間位は、幸せで居たい。我が儘かも知れないが、過去の自分を忘れる事でそれを手に入れたい》
 俯き、ハーパーの大きな手を両手で握る。
《恒河沙を認められないのなら、私はお前を傍に置けない。私は残りの時間を、自分の為にあの子と共に居たいから、お前の言葉に耳を貸せない》
《主はもう我が必要ではないと申されるのか》
 別れを告げる言葉にハーパーは声を堅くする。
 ハーパーの問い掛けに、彼を見ずにソルティーは頷く。
 それがどれ程辛い事か、わざわざ言葉にしなくとも触れた両手から伝わってくる。
 その両手が離された時に、ハーパーは勝手に体が動いていた。
《離せっ! お前の小言はもう聞きたくはないっ》
 ソルティアスの腕を反対に握り、聞きたくもない別れを口にする彼に、ハーパーは躊躇いを振り払い言葉にする。
《我は、ソルティアス様の唯一無二の家臣では無かったのですか》
 そう言えば思い出してくれると信じ、今の言葉を無かった事にして貰えると、何処かで信じていた。
 しかしソルティーは頑なにハーパーの訴えを否定する。
 何度も子供の様に首を振り、彼の手に自分の手を重ねるが、それは彼の手を放す為の物だった。
 そしてギリッと歯を噛み締める小さな音に、ハーパーは心に何かが過ぎるのを感じた。
《離してくれ、もうお前よりも必要な者が居るんだ》
 ソルティーの声は気丈なままに吐き出されたが、掌に伝わる微かな震えは別の意味を伝えようともしている風に感じられた。
 ハーパーは珍しく言葉を探すように口を噤み、そしてまるで溜息を吐き出す如く、力を抜いた言葉を紡いだ。
《その様な言葉で、我が納得するとお思いか。恩命と言うならまだしも、その様な嘘の見える言葉で、我がソルティアス様を手放すとでも思って居られるのか? 去れと申されるなら、何故命じて下さらぬ。心からそう思って居られるならば、我の目を見て命令をお下しなされ》
 そう口にしたのは、ハーパーらしからぬ賭だった。
 ソルティーを育てた自負もあり、その中には主と従の関係をも教えてきた。確かにそうした立場を振り翳すソルティーではないが、使う術を放棄もしていない。
 気丈な振る舞いと共に一言『暇を与える』と口にすれば済む二人の関係を、彼は敢えて口にしていないように感じられた。
《我が主としてソルティアス様、命を》
 せめてそうして言われたならば、真実味を持って受け入れられたかも知れない。
 にもかかわらず再度ハーパーによって機会を設けられても、ソルティーは首を振るだけだ。
《………私は、もう…お前の主ではない》
 やっと口に出せたのは、ハーパーの望む別離の言葉ではなかった。
 帰る場所があるならそうと言えただろう。待つ者が居るのなら、それを理由と出来るだろう。
 自分と同じく、帰る場所も仲間も失った彼に告げる言葉が、あろう筈もなかった。
《主……》
 口ごもるソルティーにハーパーは何もかもを察した。
 恒河沙の事によってソルティーは確かに変わった。しかし事実命令のみでハーパーが動く事を判っているのなら、恒河沙への態度を改めろと言えば済む。それを避けてまで今別れを選ぼうとしているのは、彼の為ではなく自分の為ではないだろうか。
――何故この御方は、こうまでも己ではなく他を選ぶのか……。
 リーリアンの竜族は王に忠誠を誓う。それは過去の過ちへの贖罪と、受けた恩恵への忠誠である。
 だがハーパーだけは唯一の主としてソルティーを選び、それを一度失った。
 そして間違いなく主を失う苦しみを、もう一度迎えるだろう。
 今絆を断ち切れば、ハーパーは再び誰かを主と呼べる日が来るかも知れない。永き命を、また別の何かに役立たせられるかも知れない。
――何もかも詮無き事よ。初めて触れた人の子が、至上の存在では。
《主よ、我が唯一にして無二の主よ、我に命をお与え下され。――共に生き、共に死ねと》
 意のままに、過去より続く思いのままに言葉にし、驚きながら見上げられた顔にハーパーは穏やかな笑みを浮かべた。
 自分を捨てて恒河沙を取ったのではない。自分に無かった物を彼に感じ、それが更にソルティーを優しくしただけの話だ。
 自分の誇りをかけて育てたソルティーが、決して変わってはいなかった事を。
 震える指で自分の指を放そうとするソルティーが、まるで子供の頃に戻ったように愛おしく見えて、ハーパーは彼を空いた片腕で抱き上げた。
《ワァは、主と離れませぬ。何が在ろうと、何と言われましょうと、離れませぬ》
《……もうお願いだ、私の為に無理はしないでくれ。戦いを嫌うお前には、もう……》
 分厚い鎧に隠された、癒える事のない傷にソルティーは触れた。
 以前の様に動かなくなったいた右腕をハーパーが隠し通すつもりでいた事を、口に出さなくても知っていた。
 気付かない筈がない。ソルティーの記憶の中には何時も彼が居たのに、鬣の微かな変化ですら気付けるのに、見間違う筈はなかった。
 ハーパーの鬣を握り締め、震える声で訴える。
《お前に何かあったら、私は……》
 自分を許せない。