刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
「お前にも判ると思うけど、これはアルスティーナに渡す筈だった。しかしもう彼女は居ない、ずっと前に死んでしまった。だから何時か捨てようと思っていた」
「ソルティ……」
「前に彼女の夢を見た時に、他の誰かを好きになっても良いと言われて、その時はそんな事は有り得ないと思った。アルスティーナ以外を好きになるなんて、想像も出来なかった」
「……うん」
「それなのに、今は捨てなくて良かったと思ってる。アルスティーナの代わりは勿論居ないけれど、恒河沙の代わりも居ないから」
「ソルティ……」
「だからこれを恒河沙に貰って欲しい。それとも、矢張り物で釣っているみたいで、嬉しくはないかな」
前の様に、辛そうにアルスティーナを語る訳でもなく、最後には少し悪戯っぽく微笑む彼に、恒河沙は何度も首を振った。
嬉しくて泣きそうになった。
泣き虫では無い筈なのに、ソルティーと居ると何時も泣きそうになる。
「いいの? ほんとに俺が貰っていいの?」
「お前以外に渡す相手は居ないな。 私が恒河沙にあげたかったんだよ?」
「ソルティーが俺に……。嬉しい……俺…」
紫色の宝石を握りしめて、喜んでいる自分をちゃんと見せようとソルティーの腕の中で体の向きを横にした。
しかし笑おうとしている目には、今にも零れそうな涙が浮かんでいた。
「ほら、泣かない。どうして泣くんだ?私が虐めて居るみたいじゃないか」
流れ落ちそうになる涙をぎゅっと目を瞑り、懸命に堪えてみても、目の奥が熱くてなかなか納まらない。嬉しくても泣けるなんて、ソルティーと出会わなければ一生知らないままで終わったと思う。
まだ一年半しか一緒に居ない人が、どれだけ自分を変えてしまったのか……。
「恒河沙?」
失いたくない。
優しく語りかける声を、包み込んでくれる腕を、微笑みを向けてくれる彼自身を、絶対に失いたくなかった。
「俺……ソルティーにあげられるの、持ってない……。こんなに大事なの、何も持ってない」
疑いを持たせてしまった所為で、差し出された証明に代わる物をと思うのは当然の事だったろう。けれど荷物をひっくり返しても、何も出てこない。この身一つで成り立つ傭兵にそう言った物は必要ではないし、元々の家にも自分の知らない自分が残した物ばかりだった。
与えられるばかりの自分が、ほとほと嫌になる。そんな気持ちさえもソルティーと出逢わなければ知らないままで、考えれば考えるほど落ち込みたくなってくる。
そんな恒河沙にソルティーは微かに笑った。
「恒河沙を貰えたのではなかった?」
「ほぇ……?」
目を開けて見た先には、凄く好きな幸せそうな彼の顔があった。
ただ少しだけ今までと違う風に見えるのは、微かに子供っぽい自然な笑顔に感じたからだろうか。
「前に言っただろ? 恒河沙が自分をあげるって。だから、恒河沙は私のだ」
「…え…あ……」
間近にあったソルティーの顔がもっと近付いて言葉は奪われ、何を言うつもりだったのか直ぐに忘れてしまった。
――ソルティーが好き…。
もうそれしか浮かんでこなかった。
翌朝は少しだけ何時もと様子が違っていた。
ハーパーが……。
恒河沙の首から下げられていた物を見て、腰が抜けたのだ。
《主! 何をお考えですかっ》
鱗に覆われた顔色に変化はないが、確かに血相を変えていたと須臾は見た。
何を言っているのかは理解出来ないが、恐ろしく慌ててソルティーに詰め寄り、朝食の準備も放って、遠くの彼方にソルティーを引きずっていってしまった。
《主っ、あの品は、代々我が国に伝わる品では御座いませぬか。しかも、妃となるお方にお渡しする物。姫にお渡しする筈だった…》
《ハーパー、もうアルスティーナは居ない。死んでしまった者には渡す事は出来ない。墓標さえも無ければ、捧げる事さえも不可能だろう》
思いもよらなかったソルティーの言葉には、呆気ないほどの響きがあり、ハーパーは狼狽えた。
《私の国はもう存在しない。アルスティーナも存在しないんだ》
これまで国の事もアルスティーナの事も、語る時には悔恨が浮き彫りとなっていたが、今のソルティーの声には全くそれが含まれていない。
認めたいと願いながら、認められなかった事実をソルティーはやっと認めた証だった。
だがハーパーには到底理解しがたい心の変容であった。
《そうかも知れませぬ。しかし、何故あの様な者に……》
《大切だからだよ》
ソルティーはハーパーの言い様に一瞬表情を曇らせるが、直ぐに簡単な答を口にした。
自分が一人だとはもう二度と感じる事は無いのだと、そう信じる事が出来たから、何の力も入らない言葉を言えた。
《お前には悪いと思うが、私はあれを恒河沙に渡したいと思った程、恒河沙を必要としている。比べられはしないが、今はアルスティーナよりもあの子を大事に思っている》
憧れて、手に入れられないと嘆いていた事が嘘の様だ。
ハーパーにしてみれば、ソルティーの言葉が総て嘘にしてして貰いたい。
《我には判らぬ。何処の出自かも知れぬ者をお選びなさるとは、しかもあれは男児では御座いませぬか》
《ハーパー、私は既に一度死んでいるのだよ? 無理に血筋に拘って、血を残す必要のない者だ。今の私に必要なのは、次の血を残すだけの配偶者ではなく、私自身が必要としている者だ。私は心からあの子を必要としている、だから渡した。身分や性別など関係ない、私自身の心の問題だ》
自分の胸に手を当て、決してハーパーには理解出来ないだろう言葉を吐き出す。
アルスティーナの事をこんな風に言いたくはなかったが、結果論しかない自分の過去を振り返れば、彼女の存在は結局ただの子供を残す者でしかなかった。
それが当たり前の世界だった。
肩書きを含む総ての煩わしさを放り出した存在として、やっと手に入れられた存在を、今まで自分を支え続けてきてくれたハーパーには認めて欲しいのは、ソルティーの子供じみた我が儘ではない筈だ。
しかし彼は悔しそうにソルティーを見下ろし、堅く拳を握り締める。
《主は…お変わりになられた。我は納得が出来ませぬっ! それではこれまでの事は無かった事にするおつもりか、それでは主を信じ死んでいった者に示しが尽きませぬっ!》
《お前が求めているのは、五百年も昔に死んだソルティアスだ。私はもうそうではない。今此処に存在しているのはソルティー・グルーナ、国に縛り付けられていた昔の私ではないっ!》
ハーパーの憤りさえも退けるほど、ソルティーの声には力が込められていた。
《今、嘗て存在していた場所に向かっているのは、国の為でも民の為ではない、私自身の為だっ!》
立ち向かう為の意思には、それなりの勇気が必要だ。
その勇気を嘗てのソルティーは持っていなかった。希薄だった自分の存在に、そんな物は必要とされなかった。
それをやっと持つ事が出来たのは、それを与えてくれた人が居たから。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい