刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
復讐を遂げられるなら世界が滅びても構わないとさえ思っていた彼が、冥神の目的に揺れ動いた理由が恒河沙なのは、皮肉な話という他はないが。
――そうですわ、私にはもう何も出来る事はないのですわ。
仮にソルティーが恒河沙を置き去りにしたとしても、彼が鍵として目的の場所へ辿り着いた所に恒河沙を送る事など容易い。しかし役目としてではなく、彼と同じ闇を抱く者としての心が邪魔をした。
せめて最期だけは自らの意思であればと思うからこそ、嘘と真実を織り交ぜながら此処まで来た。
「俺、風呂入る」
「はい、ゆっくりと長湯をして、そのまま溺れて下さいませ」
「べーーー」
「いーーー」
勢いよく突き出された舌に、剥き出しの歯で直ぐさま答える事にさえ慣れてしまう程、自分は長く居すぎたのだと思う。
嘗ては同じ位置にありながら、この世界に残った存在として高慢になった種族であるハーパーが嫌いだった。愚かさと稚拙さを小賢しさで包み隠し、ちっぽけな形ばかりを拘る須庚が嫌いだった。何も知らずにただ居るだけでソルティーに安らぎを与えられる恒河沙が嫌いだった。
そして自分を利用する事でしか優しさを表せなかったソルティーの卑怯さだけは、許せないと思う。
それなのに、
――私、貴方達が好きでしたわ。
だからこそ胸が痛んだ。
あるかどうかも定かではない心が、この先を見続けるのを拒んでいた。
偽り無い自分の感情にミルナリスは一度だけ悔しさを瞳に湛え、振り払うように目を閉じながらギュッとぬいぐるみを抱き締め、自然と込み上げてくる嗚咽を噛み殺していく。これまでに感じた事のない孤独を感じながらでは、それが今の彼女の出来る精一杯の虚勢だった。
須臾が予め決めていた酒場は、西の貧民地区に近い場所にあった。
「上品な所より、こんな所の方が美味しいのは世の常だね」
そこそこの広さを有していたが、人一人が通り抜けるのにも苦労する程並べられたテーブルと椅子を避けながら、成る可く端の方に場所を決める。
二人が椅子に座ると直ぐに、注文を聞きにまだ幼さが残る少年がテーブルの横に立った。
「カーシュ置いてるかな?」
「あると思うよ」
「んじゃそれ、ソルティーは?」
「一番きつい酒」
「それと何でも良いから摘み見繕って」
「あいよ。カーシュときつい酒に摘みだね」
「うん、頼むよ」
少年は忘れない為か、指を折りながら急いでカウンターへと帰っていった。
「あれ、まだ成人もしてないよね」
「……貧民地区があるのだろ。なら働けるだけましだ」
詳しい内情まで測る事は出来ないが、その日の暮らしに困る者が多く居るのは、酒場の中を見渡すだけでも見る事が出来る。
安酒一杯で長居を決め込んでいる者が多く見え、大半が食うや食わずを思わせる程に痩せ、騒がしさは他の酒場と同じだったが、集まっている男達の目の輝きは疲れ切っていた。とても日々に充実しているとは思えない様子に、ソルティーでなくとも彼等に希望は感じられないだろう。
「あ、でも、この酒場の子供だったりして」
こういう見方も出来ると口にする須臾に、ソルティーは笑った。
「確かにそうだな」
「でしょ?」
物事を暗く考えすぎるソルティーに、別の見方を教えるのは結構楽しかった。
事実を事実として受け止めるのは、確かに正しい事かも知れない。けれどそれは、自分自身を窮屈にしている。そう言う事を須臾は嫌いなのだ。
「ラジッシュお待ち。……お客さん、ごめんだけどカーシュ無かった」
ソルティーの前にグラスを置きながら、少年が謝って他の酒を頼む。
「あ、そう、んじゃあ一番美味しいお勧めにして」
「ほんとにごめんな。んじゃあ、父ちゃんお勧めの酒持ってくる」
そう言って少年はまたカウンターに戻っていった。
「ね?」
少年を見送りながら須臾がソルティーに片目を閉じて見せ、「その様だ」とソルティーは彼の推測に称賛の気持ちを込めて、ラジッシュを傾けた。
三杯目までは極普通の男の話に終始した。
どの種族の女性が一番だとか、今まで関係した女性の良さを、軽い冗談を交えて話しを進めた。
「ソルティーってば、あの時すっごく切羽詰まってたじゃないか」
「実際そうだったんだから仕方ないだろ。ハーパーが居る前で娼館通いでもしてみろ、怒鳴られるだけでは済まない。彼等には人の様な性が無いんだ、幾ら説明しても、ふしだらだと怒られる」
「へぇ〜じゃあ、娼館行ったのって?」
「お前に誘われた時が初めてだ。あいつは、立ちが居るだけで道を変更すると言い出すんだ」
「じゃあさあ、それまでどうしてた訳? 一人寂しく……?」
余程その時は苦しかったのか、ハーパーが居ない今だからとソルティーの口は随分と滑らかに動いていた。ここでしか聞けないとばかりに須庚は興味津々で身を乗り出し、そんな彼を片手で戻しながらソルティーは一つ咳払いをする。
「耐えられなくなったら後で怒られるのを承知で、ハーパーが入れない酒場に行って、其処で声を掛けてきた女性で済ませた」
「………酷い」
「同意でしたんだ、良いだろ」
「違う違う、女は此方から口説くのが最も最高の味付けになるんだ。向こうから来させるなんて、男として立派じゃない」
「立派ねぇ……」
「言い寄る女は袖にして、素知らぬ顔の女を振り向かせる。それが男の醍醐味じゃない」
偏った持論を高らかに語りながら、須庚はソルティーの手にしていた吸いかけの煙草を奪い、慣れた仕種で紫煙を燻らせる。
「吸うのか?」
須臾が煙草を吸うのをソルティーは初めて見た。
種類的にもソルティーの煙草は彼の好む酒と同様にきつく、慣れていなければ咽せるほどだ。
「嫌いじゃないよ。ただ臭いが髪に付くのが嫌いなだけ」
須臾らしい吸わない理由を聞きながら、ソルティーは新しい煙草を抜き取り、火は彼から貰う。
「これでも煙草は一桁で覚えたね。酒もその位。女は流石に相手にされなかったから、十四までお預けだったけど」
「ませた子供だ」
「そうでもないよ。子供故の現実逃避。あんたと比べるのは烏滸がましいけど、僕の家もかなり厳しくてさ、実は恒河沙連れて家出している最中だったりして」
初めて須臾の口から聞かされた、彼個人の話にソルティーは銜えていた煙草を落としてしまう。
「家出……一寸待ってくれ」
ソルティーはテーブルの上で燻る煙草を、慌てて指で摘んで灰皿に擦り付けた。
冷静になりきれないソルティーに須臾は苦笑いを浮かべ、残り少ない酒を喉に流し込んだ。
「心配はご無用。どうせ誰も僕の事を捜したりしない。家出と言っても、成人の儀式は済ませた後だし、何処に僕が行っても僕を縛り付ける権利は誰にも無い。恒河沙は、僕が成人したその日に僕の保護下にしたから、彼奴だってもう成人してるからね。あんたが心配する様な話は何一つ無い」
「……それでも心配する。本当に大丈夫なのか? 家族は」
「殺しても死なない婆が一人居るだけ。こっちは家族だとは思ってないけどね。多分向こうもそう思ってるんじゃないかな。嫌われてたから」
とても冗談を言っている風ではない須臾の表情だった。
しかもそこには、やはりそれ以上の深入りを許さない壁があった。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい