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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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「でも彼奴は……」
「誰でも自分以外の心の総ては判らないよ。私にだってお前の総てが判らないから、こうして聞いている。――しかし本当は、傍に居てくれるだけで良い。理解して欲しいと思う前に、お前が傍に居てくれる今が必要なんだ」
「……何か、俺が馬鹿な方が良いって言ってるみたいだ」
 いじけた物言いにソルティーは微かに噴き出すと、今度は両腕でしっかりと抱き締める。
「そうかも知れないな」
「ソルティッ!」
 身動きできなくて言葉だけで抗議すると、笑い声が耳に響いた。それが納まると、今度は髪が吐息に揺れた。
「今のお前じゃなかったら、決して好きにはならなかった。多分、お前が総てを見通す目を持っていたら、私を好きになどならなかった」
「そんな事無いっ!」
「そう言い切れないよ。少なくとも私はね」
 自分はどんな事があっても同じだと信じていたのに、ソルティーはあっさりと否定してしまった。それなのに彼の言葉は、今までに無い程真剣で、両腕の力も今の自分だけに向けられているのだと感じられた。
「良いか、これは私の我が儘だが事実だ。私は今のお前だけが必要で、お前が理想としているお前を必要としない。言っただろ、私はお前に知られたくない事がある。だからお前が須庚やミルナリスの様になれば、お前から離れなくてはならなくなる。隠す事を第一に考えながらお前と共にいるなんて、そんな面倒な事はしたくない」
「そんなソルティ……」
「変わりたければ変わればいい。しかしその時が訪れたら、私はお前を失う」
 僅かだが恒河沙を責めるように言いながらも、ソルティーが胸に感じていたのは恐怖だった。
 総てを知り、どんな事にも打ち勝つ事の出来る恒河沙の思い描く姿は、ミルナリスの示唆した姿だ。
 その時が来れば、本当に何もかもが失われてしまう。
 だからこそ願わずにはいられない。
「お願いだ、私からお前を奪わないでくれ」
 願いと言うには悲痛すぎる声に、恒河沙はジッとしていられずにソルティーの腕を掴んだ。
 まるでこれまでに何度も自分が感じた事のある、彼が消えてしまう感覚を自分にも感じられている様だ。――いや、今でも感じている。こんなにも近くに居て、こうして触れているにも拘わらず、決して不安が消える事がない。
 ただ、もしも彼が本当に同じ不安を抱えているなら、それこそどうにかしたいと心に浮かんだ。
「……俺は何処にも行かない。ずっとソルティーの側に居る」
 自分に出来る総てが、彼への癒しになって欲しいと強く思いながら、その気持ちのままに手に力を込めた。
 此処に居る。離れたりなんかしないと。
「だからソルティーも側に居てくれる?」
「居るよ。最後までお前の傍に居る」
 この、事実でありながら、本来の意味とは懸け離れた予測を含んだ言葉の呪縛が、いったいどんな結果を引き出すのか予想できない。

 ミルナリスを殺し、恒河沙をシスルに帰せば済む問題ならば、恐らく簡単に成し遂げられた。しかしそれを妨げるのは、彼女が示唆した瑞姫達と冥神の思惑の違いだ。
 瑞姫達がシルヴァステルを討ち滅ぼすつもりなのは間違いなく、確実に成さなくてはならないのは、世界の状態から知れる。人の力無くては現れられない精霊や、年々悪化する災禍の被害は、世界その物の均衡が崩れている事を示し、恐らく次の大きな戦いには耐えられないだろう。
 過去二回に及ぶ世界を蹂躙し歪めた戦いは、双方共に大きな痛手を負って幕を閉じた。シルヴァステルの回復が未だ完全ではない今回こそ、瑞姫達にとっての最後の戦いにしなければならなかった。
 だが冥神は道を違えた。
 ミルナリスの話では瑞姫達の敵としてシルヴァステルに付くのではなくとも、その目的は杳として知れない。判っているのは、恒河沙を現世での器にする事だけ。
――私が護りたいのは、この温もりだけだと言うのに。
 ミルナリスが言うように、瑞姫達の計画は諸刃の剣。首尾良くシルヴァステルを滅ぼせたとしても、彼女達がシルヴァステルの代わりとなる事が出来なければ、世界はそこで終わってしまう。
 冥神が別の思惑に動いているのは、この世界を残す術を得ているからなのだろう。
――しかし、それでは意味がない。私にとっての世界は……。
「お前が変わらずに居てくれるなら、私はどこに行こうとお前の傍にいるよ」
 一縷の望みが有るとするなら、やはりこれもミルナリスが語ったように、恒河沙が冥神の力を退けられる程の意思を持つ事だけだろう。少なくとも恒河沙は父である阿河沙の様に、全てを冥神によって造られていない。ならば人としてこの世界に存在する半分に賭けるしかなかった。
 その為にもソルティーは彼が彼であるようにと語りかけ、最後までこの嘘を貫き通す事を心に誓った。

「さ、戻るか」
 須庚達との待ち合わせを思い出し、ソルティーは恒河沙に回した腕を解きながら立ち上がれば、その腕を掴んでいるままの彼も一緒に地面を踏み締める。
 けれど向かい合ったまま俯いた頭は上がることなく、体の向きも変えられなかった。
「恒河沙?」
 まだ何か言い足りない事があるのかと名を呼べば、掴まれていた腕に更に力が入れられた。
「あ……あのな……」
「うん、何?」
「約束……」
 どこか言い難そうに恒河沙はぽつぽつと呟き、思い詰めたような深い息を吐き出してから、急に顔を上げた。
「前みたいなのでして欲しい」
「前?」
 薄暗がりの中でも恒河沙の顔は何故か赤くなっていたが、その色の違いは影が邪魔して、ソルティーの目は正確に捉えられない。
「だから、前の……口の中舐めたりするやつ」
「ああ、キスの事か」
「うんそれ! それと約束と違うけど、それが良い」
 傍に居ると言う約束に適した“口をひっつける場所”が思いつかなかったのもあるが、単純にまたキスがしたかった。
 ただ未だにその意味までは理解し切れていない楽しそうな恒河沙の台詞には、ソルティーは一瞬言葉を失った。
「……相変わらず」
――色気のない。
「ん?」
「いや、何でもない」
 気付いて欲しくはないが、全くそれと知らずに求められるのも微妙な感じだ。――とは言え、こう言う所が彼のらしさであり、不思議な程気持ちを揺さぶられてしまう。
――私の方が先に参ってしまうかも知れないな。
 不意に浮かんできた誘惑を苦笑で紛らわし、キョトンとしている恒河沙の顎に指を宛がい顔を寄せた。
「目は閉じて」
「ん」
 疑いも戸惑いもなく瞼を閉じた顔にもう一度ソルティーは小さく笑い、そっと唇を重ねた。
 啄むような優しいキスはくすぐったいのか、腕を掴んだ指先が僅かに震える。閉じた唇を開かせる為に触れさせた下の感触には、ほんの少し驚いたように力が込められた。そんな小さな仕草でさえも愛おしく感じながら更に深く唇を交わらせれば、今度は舌先に何をして良いのか判らないでいる恒河沙の舌が触れた。
「……んッ」
 口腔や舌を撫でられる度に声を詰まらせた音が漏れ、体が妙に熱くなってくる。その心地の良い感覚に体はジッとしてられなくて、背伸びをするように踵が上がる。
「ん……ル…ティ」