刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
一発触発までにはまだまだ余裕があったが、平行線を辿るしかないソルティーと須庚の話では、言い合いが続けば険悪さを募らせる可能性は拭えない。当然ソルティーが強権を振り翳せば、二人の関係は平穏さを失う恐れもある。
須庚からすれば恒河沙の空腹は絶好の幕引きであり、この機会を逃さなかった。
「まっ、まあ、恒河沙もこう言っているんだし、この話の続きは街でゆっくりしてからにしよう! ね?!」
独唱と言うよりも合唱に近い気力を蝕む音の影響から、最早緊張感を維持出来なくなったソルティーの肩を叩き、須臾は何事もなかったような笑みを浮かべて見せた。
――俺、何も言ってないんだけど……。
雄弁だったのは腹の方だ。しかしその雄弁さが、ある意味最大の武器だったのかも知れない。少なくともソルティーにだけは通用する武器なのには、間違いないだろう。
しかもこれまでにさんざんエニでの楽しい食事について花を咲かせていたのだから、これ以上にソルティーを黙らせてしまう手段は無い。
「……はいはい、判った判った、もう勝手にしろ。その代わり、何か起きて自警団に行く事があれば、その時はお前が行け。事が大きくなれば、お前が首謀者だ」
「了解」
不承不承で引き下がったソルティーに須臾は笑顔で頷くと、先頭を切って街道を歩き出す。その後ろで自分の雇い主が憂いを見せていても、全く気にしていなかった。
「ごめんなぁ……」
恒河沙はどう考えてもソルティーが折れたのが自分の所為だと判って、彼の隣を歩きながら何度も頭を下げながら、黙ってくれない腹を何度も叩いた。
その頭にポンとソルティーの手が置かれ、顔を上げると「気にしてないから」と首を振って見せられた。
「どちらにしろ、私では須臾の口に勝てない」
論理のすり替えが巧妙な須臾の言動には、負ける事も屡々だ。
ただ、
――どうやら、何か理由も有る様だ。
と思えば、今回の事に勝敗を当て嵌める気持ちにさえもなれない。
その理由を聞き出せなかったことは多少痛いが、須庚が無益な事で勝手な行動をするとも思っていない。彼への信頼が妙な意地で壊れてしまう前に話を終えられた事は、それなりに良かったのだろう。
――それに、彼が何かをするのは……。
一度須庚の背中を見てから再び恒河沙へと視線を戻す。
なかなか鳴りやまない腹をぽこぽこ叩いている姿に笑いたくなるが、どうしても無理だった。
須庚は文字通り恒河沙が産まれた時から傍にいる。そして未だに多くを語ろうとしないのは、ソルティーと同様に隠したい何かがあるからなのだろう。
「それより恒河沙、その音はどうにかならないのか?」
「あう〜〜〜」
持ち主の意思を無視した騒音は、確実に酷くなりつつあった。
かといって、エニの外れが見え始めた頃では、既に誰の荷物の中にも食料は残っていない。このままでは街に入る前に空腹のあまりに倒れてしまいそうだ。
――此処で力を渡す訳にもいかないだろうし。
お腹を押さえながら歩く姿に視線を彷徨わせ、触れるかどうかを考えていると、後ろからミルナリスが頬を膨らませながら駆け寄ってきた。
「仕方が有りませんわね」
恒河沙の前で立ち止まると棘のある言葉を吐き出し、徐に抱えていた兎のぬいぐるみの背中に手を差し込む。
何時の間に改造していたのか、ぬいぐるみは入れ物となっていたらしい。
「はい! 後で買って下さいませ!」
取り出されたのは幾つかのお菓子をだった。
しかし恒河沙は差し出されたお菓子を、涎を口の中に溜めても、なかなか手を出せずにいた。
「毒なんか入ってませんわ! 私はその耳障りな音を、さっさと止めて欲しいだけですわ!」
「恒河沙、好意だよ」
「う…うん。……あり、が…とう…」
「ふん!」
言いにくそうな恒河沙のお礼の言葉にもミルナリスは思いっきり怒った顔を浮かべたまま、差し出された両手の上にぬいぐるみの中に入っていたお菓子全部を乗せた。それが済むとソルティーの足下へと場所を変え、彼が抱き上げるのを待った。
――ありがとう助かった。
――私は、私の目の前で、貴方が誰かに触れるのを見たくなかっただけですわ。
強がるミルナリスにソルティーは苦笑する。
精霊に食事は必要ないにも拘わらず彼女がこんなに用意していたのは、恒河沙の為以外には無い。しかもお菓子のどれもが恒河沙の好きそうな物ばかりとなれば、彼女の台詞には珍しく説得力の欠片も無かった。
感情はどうであれ、彼女は彼女なりの最善を考えていると言う事だ。
「それじゃあ、落ち合うのは此処で良いんだな」
些か憮然としたソルティーの言葉には、納得出来ない気持ちが含まれていた。
街の中心である大通りの入り口には、誰とも知れない女性と子供の彫像が目印のように置かれ、それを背にするソルティーに須臾とハーパーが苦笑いを浮かべて頷いた。
「それじゃあお子様のお守りはお願いするね」
「では主、呉々もお気を付けなされよ」
街の調査に対して真っ先に名乗り出たのはソルティーだった。しかし須臾がそれを即時却下した。
組み合わせの難しさが今一番の問題かも知れない。
確かに路程を決めるようにソルティーと須庚とハーパーで動ければ、それに超した事はないし確実である。ただし食事が絡めば恒河沙とミルナリスを宿に押し込めておく訳にはいかず、ならば以前の様に恒河沙の世話は須庚が、と言う事なのだろうが、ミルナリスの存在がその妨げとなっていた。
ミルナリスの挑発と言うよりも、恒河沙の気持ちの問題だった。その証拠に彼女がソルティーと離れていれば、彼も大人しく須庚との行動を良しとするのだが、彼女がソルティーと行動すると言い出せば、自分もと我を張ってしまうのだ。
我が儘と言うより、独占欲の表れなのだろう。
兎も角こうした状態に須庚やハーパーは辟易して、一言の口を挟むのもうんざりしていた。
言い換えるならミルナリス付きのソルティーから恒河沙を引き剥がすのも、恒河沙の腹を我慢させるのも、ミルナリスと同じ席に着くのも、面倒以外の何者でもない。
体よく問題を解消させて尚かつ、ハーパーが居れば何かあった時に飛んで駆け付けられる時間的余裕が選べる三と二に分かれるのが一番である。そこにこの問題を作り出した諸悪の根源が、悩もうと胃を壊そうと知った事ではない。
そんな本音を滲ませた理屈と屁理屈を兼ねた理由を並べてソルティーを黙らせた須臾とハーパーは、軽い足取りで人々の注目する視線にも堂々と胸を張って坂を下り、見送る一対の視線は二人の姿が消えるまで縋り付くようであった。
「ソルティー、飯」
一向に動く気配のないソルティーの腕を恒河沙の手が掴み、漸くソルティーはこれからの忍耐を要する一時を受け入れた。
「そうだな、じゃあ店を探すか」
「うん!」
ワズルの姿焼きを一人で四皿平らげた恒河沙は、食後の軽い食事に取りかかっていた。
因みにワズルの体長は1フィアス程で、丸々と肥え太った白身の魚。大抵二三人で食すのに丁度だと言われている。
「この後どういたしますの?」
純水だけ口に運ぶミルナリスに、ソルティーは答えを躊躇った。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい