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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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――全てではありませんわ。いいえ、主に逆らう事の出来る魔族は存在しません。しかしアガシャの体がそれをそれとして動いているのなら、注意を払う必要が無いとは言い切れません。
――そうか。
 ミルナリスが彼女の識る全てを語る事が無いにしろ、恒河沙の父親に関しては彼女自身に迷いがあるのだろう。
 彼女はソルティーが進む先に阿河沙が居る事を知りながら、だが先日には驚愕に包まれながら既に居ないと口にした。そしてまたゲルクの台詞に疑問を抱く。
 ソルティー自身、彼女の持っていた予定調和が崩れた事には、些かの問題を感じていない。目的の相手がシルヴァステルただ一人だろうと、他にどれだけ敵が増えようと、彼自身の役割とは無縁に近い話である。
 しかし……
――次に狙われるのは恒河沙か。
 ソルティーは一度後ろを振り返り、和気藹々と何かを話している恒河沙と須庚を見た。
 もしもシルヴァステルが今この時でさえも全てを見通しているならば、喩え瑞姫達と冥神の考えは違っていても、己が私意の邪魔である事には変わりない。そして阿河沙の代わりが恒河沙だけならば、彼が狙われる筋書きも強ち確率の低い話ではないだろう。
――私にも判断しかねます。もし仮に魔族の誰かがそうした行動をしているとしても、あの剣をその身近くから離さなければ、大きな抑止力になると思いますわ。
――あの中に有るのは、力だけなのか、それとも。
――判りません。何故なのか、全てが私には。
 ミルナリスの苦悩に包まれた内なる声を聞きながら、ソルティーは無意識に強張っていた顔を平静にする。
 狙われているのが自分一人なら、幾らでも方法が思いつく。だが自分の居ない所でもし彼が直接狙われた時に、気付かせず居られるかの自信は無い。
――ソルティー、一人で無理を考えないで下さい。
 ミルナリスの心配する言葉にソルティーは答えなかった。
 ただ黙々と前だけを見据え、理不尽への憤りにだけ胸を熱くさせた。







 蒼陽が空の中央を支配する頃、薄明かりに照らされた地面を蠢く蜷局が見えた。
 青と緑と白が疎らに散らばる太いそれは、息づく様に微かに動く巨大な蛇。雑草を押し潰し蒼陽の青白い光と、周囲の木立の影で更に不気味さを増したそれは、突然聞こえた甲高い声にゆっくりと身を擡げ、閉じていた瞼を静かに上げた。
「来たよ来たよ、やっと人形が来たよ」
 近くから遠くに、遠くから近くに。声変わりもまだな少年の楽しげな声が、行ったり来たりと何度も繰り返される。
 そして蜷局の前に突如、黒いマントに包まれ目深くフードを被った子供が現れ、やはり楽しさを表す如くに飛び跳ねた。
「これでこれで、見返せる。見返せるんだよ、バルバラ」
 フードの下には大きな口が軽快に言葉を紡ぎ出すが、其処に存在しているのは口だけだった。闇の中に口だけが浮かんでいるのだ。
 しかも聞こえる声はあまりにも甲高く、勢いよく放たれる割には抑揚が無く、響きはあまりに耳障りだった。
「バルバラ、バルバラ、嬉しくないのかい? 嬉しいだろ? 嬉しいに決まってる、決まってるよ」
「煩いっ!!」
 フードの声に耐えきれなくなったのか、周囲に怒声が響き渡った。同時に蜷局がズズッ湿った体を擦り合わせながら動き始め、まるで空へと昇ろうとするように緩慢に上へと昇る。
「煩いんだよ、グリーク」
 蒼陽に照らし出された蜷局の先端には、毛先に進むに従って赤から血色に変化していく長い髪を持つ、豊満な女の体が備わっていた。
「どうしてどうして、怒ってる? どうして怒ってる?」
 高く昇るバルバラを見上げ、グリークが怯えた様にフードを震わせる。
「お前の声は気分が悪い。それにこの私がお前の気付いた事に、気付かないと思ったのか」
 腰から上の、均整の取れた女の体には何も纏っていない。見せ付ける様に胸を惜しげもなく晒したバルバラの肩には、不自然な四本の腕が存在する。その腕の先には、異様に長い指。蒼陽の幻にしても、その姿はあまりにも醜悪だ。
 バルバラは尖った木の枝のような指の一つをグリークに突き付け、顔の中央にある、矢張り異様な大きな一つだけの瞳で睨み付けた。
「ごめんなさいごめんなさい、でも知らせたかったんだ。バルバラに、ボクが、ボクが教えたかったんだ」
 黒いマントに覆われた体を蠢かせ、必死にグリークは訴える。
 その怯える姿にバルバラは小馬鹿にした笑みを浮かべ、伸ばした蛇の同体をグリークの方へと移動させた。
 額がマントに触れそうになる位に近付き、一つ目を半眼にして言葉を放つ。
「グリーク、私は綺麗か?」
「凄く凄く綺麗だよ。バルバラは世界で一番綺麗だよ。きっときっと、バルバラより綺麗なモノなんか無いよ」
 間近に迫った異形の顔を、グリークはうっとりとした言葉で褒め称える。
「クク……アーーハハハハッ」
 グリークの言葉に満足したのかバルバラは真っ赤な唇を歪ませ、声高に笑いながらまた体を空へと向けた。
 高く登り詰めようとする彼女の姿を、グリークは形だけ見上げている様だ。
「バルバラ……」
「これで、これで貴方のお役に立てる」
 蒼陽を見つめ、四本の腕でバルバラは自分を抱き締めた。
 彼女の白い肌に鋭い爪が食い込み、彼女の唇は痛みを感じる程に愉悦に歪む。
「待っていて、この世の光は総て私が喰らい尽くして見せるわ。見ていてアガシャ、総ては貴方の為に」
 狂気を含んだ誓いの言葉。
 バルバラは今、至上の幸せに浸っていた。





 リグスハバリ西方の交易中心地が公国ツォレンだ。
 小国だが、周囲に大国のジギトール、エルクモ、パクージェを置き、ツォレンを中立として条約等の取り決めをしていた。産業の大半もツォレンを仲介する為、ツォレンは小国でありながら豊かな国であった。

 ツォレンに入国したソルティー達は二つの街と村を通り、王都エニまで脚を運んだ。
 本来ならエニには立ち寄らず、そのまま北西に進んだ方が進路的には間違いはないのだが、王都を見たい、いや、「エニ名産ワズルの姿焼きが食べたい!!」と言った恒河沙にずるずると押し切られた。
「ワズルと言うのは、エニの南に在るソートヴァレリ湖に居る魚で、他の国には居なくて、体はすんごく大きいんだって。だけど取れるのも少ないから、エニでしか食べれないんだって。んでもって、すーーーーーーっごく美味しいんだって」
 どこぞの店で仕入れてきた知識を、道々説明する恒河沙に頷くのは、最早ソルティーしか居なかった。
 もうこれで十数回目の説明なのだ。
 余程それを食べたいのか、それとも、言い続けなければ進路変更される、とでも思っているのか。何にしても、既に恒河沙以外は全員揃ってワズル博士にでも成れそうな気分だった。
「着いたら直ぐに食べに行こうな」
 これこそ何度目になるか判らない問い掛けに、
「ああ、楽しみだな」
 いい加減飽きるだろう返事が返される。
「うん」
「はぁ…馬鹿馬鹿しい。事有る毎に食べ物食べ物。他には御座いませんの? まったく、呆れるを通り越して、腹が立ちますわ」
「別にお前には言ってないだろ。俺はソルティーと話ししてんの、お前は寄ってくるな」