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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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「ええ、そう信じて疑いませんでした。主が用意したのは、阿河沙ですわ。決して恒河沙ではありません。阿河沙が存在するなら、恒河沙の体は、仮体の仮体。しかし、阿河沙の肉体とアヴァヅィラムが完全に分離し、肉体が失われているのなら主は必ず恒河沙をアヴァヅィラムとして、現実世界での原体として使わなければならなくなりました」
 ミルナリスが話を進める度に、水が枯れる様に引いていく闇はソルティーの肩まで後退するものの、彼女の視界の中には依然闇に抱かれるソルティーが映る。
「私の使命は、自我の存在しないアヴァヅィラムを覚醒に導く手助けをする事。しかし主が地上に造り出した時に、予定されていなかった自我を持ってしまった。私に与えられた使命よりも早く、事は進行していました」
「………」
「私は今の私と成った時、たった一度しか主にはお会いしていません。総てが主の予定調和の中で進行し、そしてそれは瓦解しました。これからどうなるかなど、私には判りません。しかしっ、貴方に何も知らせずに行かせれば……」
 予定調和の中に存在しながら、予想外の事に彼女自身も戸惑い、そしてソルティーに話をする事に決めた。
 最後の最後で、大きな決断を彼に強いらなければならなくなった。
 ミルナリスの頬に涙がこぼれた。ソルティーはそれから目を反らした。
「お決め下さい。主に恒河沙を差し出すか、無謀な賭を強いるシェマス様と共に、この世界を滅びの道に誘うのか。貴方だけが決められる」
――そして、総てに背を向け恒河沙と共に逃げるか。
 言いたくとも口に出来ないもう一つの選択肢を、選んで欲しかった。
 誰も誰かを犠牲にして事を成したい訳ではなかった。ただ他に方法がなければ、誰かがしなければならないだけだ。
 そして選ばれたのがソルティーであり、恒河沙だった。
 「逃げて」と、何度もミルナリスは心の中で叫び続けた。それでもソルティーは逃げる道を選ばないとも感じていた。逃げずに他の方法を考えようと、必死に藻掻き苦しむのが目に見えていた。
 ソルティーの怒りが納まり、闇が剣に戻る。
 代わりに言葉にならない沈黙だけが、為す術を失った二人を包み込んだ。



 ソルティーが自警本部から戻ってきている事は、扉の向こうから洩れ聞こえたケトカの話し声で須臾にも判っていた。
 暫くはソルティーが扉を開けるのを待ってはいたが、視界に入れた扉が開く気配は何時まで経っても感じられず、溜息と共に眠ったままの恒河沙の顔へと視線を戻した。
 ソルティーが来たからと言って、何かを訴える気は無い。
 自分一人だけ安全圏にいた須臾が何を言える筋合いはないし、もとより恒河沙が傷を負ってもそれは彼の責任だ。
 判っていながらソルティーが来るのを待ってしまうのは、恒河沙が何時目覚めるか判らない状況が辛すぎるからだ。
 振り払いたいのは、恒河沙が目覚めた時にまた自分の事を忘れているかも知れない、その恐ろしさ。
――あの時もこんなだったな。
 不安で泣きたくなるのを我慢しながら、何度も恒河沙の髪を撫でる。
 自分一人の力ではどうしようもない現実が耐えられない。今度忘れられたら、立ち直れるかどうか疑問だ。
「起きろよ馬鹿。また僕を一人にする気なのかよ」
 大切な者に忘れ去れる思いは一度だけで沢山だった。
 そうならない為の努力なら、どんな事でも耐えられると誓える。しかし現実は、須臾の願った通りに進んだ例しはなかった。
 普通なら此処で神にでも願うのかも知れないが、その神ですら思い通りに進まない現実を持て余している事を知っていた。
「恒河沙、どっちでも良いからさっさと起きろよ」
 だから須臾は恒河沙自身に願うしかない。
 たった一つ、自分を忘れないでくれと。


 恒河沙が借りた部屋には窓は無い。いつの間にか、ベッドに上半身を預ける形でうたた寝をしていた須臾には、自分がどれくらい眠っていたのかは判断できなかった。
 須臾を覚醒に導いたのは扉を叩く音。
 返事をする前に開けられた扉はソルティーによってであった。
「済まない、寝ていたのか」
 何度かノックをしたが、返事がないので勝手に入ってみると、目を掌で擦りながら起き上がろうとしていた須臾が居た。
「あ、うん、一寸だけうとうとしてただけだけど。何か用?」
「ファーン夫人が夕食の支度をしてくれたから、どうするか聞きに来たんだ。此処に持ってきた方が良いか?」
 ファーンはケトカの妻の名だ。
「ソルティーは?」
「私は自警で用意して貰った昼食が遅かったから、辞退だ」
「……そ、なら代わってくれるかな。食べ終わったら直ぐに戻るからさ」
 一度大きく体を伸ばしてから立ち上がると、須臾はソルティーが思っていたよりも早い決断で部屋を出ようとした。
「良いのか……」
 須臾の不安を考えてのソルティーの言葉に、須臾は別の不安を感じさせる表情を浮かべた。
「まさか、寝込み襲う気?!」
 片手を口元に置いて、態とらしく驚く須臾にソルティーは額を押さえた。
「……どうしてそうなるんだっ!」
「冗談だよ。そんなマジで怒んないでよ。怒ると余計に疑っちゃうよ?」
「………」
 項垂れたソルティーの頭を軽く叩いてから、須臾は意外と軽い気持ちでソルティーに任せられる自分を感じながら、開けられたままの扉に向かった。
 須臾の手で閉じられようとする扉にソルティーは振り返り、
「済まない」
 何かを限定する言葉でもない謝罪に、須臾は扉の隙間から片手を出し数回振って見せた。
「何の事だか僕にはさっぱり」
 何時も通りの軽口を残して扉は閉められ、ソルティーは小さく頭を下げた。
 恒河沙をこうしてしまった事への叱責も、須臾一人に任せていた事への不満も、態と退席してくれた事への感謝も、彼はたった一言で無かった事にした。
 ソルティーが簡単には出来ない事を、須臾は自然にしてしまう。それが羨ましい。
「最高の兄だな、恒河沙」
 返事のない相手に微笑み、須臾の座っていた椅子に腰を下ろす。
 顔を寄せると、ミルナリスとは違ってしっかりとした呼吸を感じる。安堵を感じながら血色の良い頬に触れれば、今度は後悔が胸を支配する。
――お前が真実を知った時、どうなるのだろうな。このまま眠り続ける方が、お前には幸せなのかも知れない。
 瑞姫達の賭を確実に信じられるのなら、選ぶべきはそれだ。
 しかしミルナリスの話を、否定も拒絶も出来なかったのも、また事実である。
「私は卑怯者だ。どの道を選択すればお前が傷付かずに済むかを知っていながら、何時もお前を苦しめる方を選んでしまう。お前に惹かれた理由でさえ知ってしまったのに、これが私自身の気持ちからだと信じたい。そう願っている」
 惹かれたのはソルティーの肉体を構成する力。古の時代に分かたれた兄弟達の力。
 しかし意思と力の鬩ぎ合いの中、選んだのは自分自身で在りたい。喩えこの感情の核が自分の物でないとしても、それを取り囲む肉付けをするのは己であって欲しい。
 だからこそ手放せない。
 自分が決めた事が、間違いだと気付きたくないが故に。
「お前が必要なんだ。これから先、必ずお前が傷付くと知っていても、傍に居て欲しい」