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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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 産まれさえ違っていたならと思う事さえもある、顔を合わせる事も出来なくなった過去の勝利。それはソルティーにとって大きな傷となって残っていた。
 そうなってみなければ決して理解出来ない話に、勝つ事が第一条件である恒河沙や須臾は納得できない様子だったが、結局ソルティーはそれ以上の話をする事はなかった。
 失ってみなければ知る事の出来ない恐怖を、まだ恒河沙は知らない。
 それはまだ恒河沙の失いたくない者が味方でしかなく、ソルティーや須庚からすれば出来れば知って欲しくはない感情だ。
――次に私が勝利する時も、失うのだろうな。お前という存在を永久に。
 理解しがたい話の為に、余計に頭を混乱させて何度も首を傾げる恒河沙に、ソルティーは笑みを浮かべて胸に巣くいだした恐怖の染みを広げた。
 既に成された予定調和を翻す為にはどうすれば良いのか、その答えはまだ浮かんではこなかった。



「で、幾ら用立てれば良いんだ?」
 ケトカの工房に行く約束をしていた恒河沙を見送った後、須臾がわざわざ自分達を捜して店に現れた理由をソルティーはずばり言い当て、彼の照れ笑いを誘発させた。
 ソルティーにしてみれば、彼本人が来ただけましだったし、慣れてもいた。
――慣れたくはないんだが……。
「幾らだ」
 再度確認の言葉を放たれ須臾は表情を一変させた。
「1000ソリド、って言ったら怒る?」
「……須臾、自分が何を言っているのか判っているのか?」
「ん…まぁ……」
 半分冗談のつもりで言った言葉に、驚きもせずに真剣に返され口ごもる。
「本気なら構わないが、そうではないならあまり変な同情はするな」
「別に同情するつもりは無いけど……、んにゃ、やっぱ同情なのかな……」
 これから先、今よりも買い手の無くなっていくだろうマナの後ろ姿を思いだし、須臾は肩を落とした。
 疲れてはいたが決して卑屈にはならない彼女を、須臾は可哀想だと思ったのだ。
 多分その感情を知れば、マナが自分を軽蔑すると思う程、自分の尺度で彼女を見ていた事を感じ、気持ちを切り替えるように首を振った。
「ごめん、10ソリドもあれば充分だよ」
 マナの価値は娼館でも一番低い位置にある。10ソリドならば、須臾がこの街を離れるまであの部屋に居られるだろう。
「須臾」
 ソルティーが須臾に放り投げた物を受け取り、須臾は目を疑った。
「ソルティー?」
 見慣れてしまった赤い石と、二枚の金貨。
 軽くてしかし重いそれとソルティーを交互に見比べれば、真剣な声が耳に聞こえた。
「お前がこんな事を口にしたのは初めてだからな、同情だけでは無いんだろ。但しよく考えてから使え。必要なければ返してくれればいい」
 須臾の返事を必要ともしていないソルティーはミルナリスを抱き上げると、さっさと彼に背を向けて宿に向かって歩き出した。
 呆然とその背中を見送りながら、須臾は大きく息を吐き出した。
 わざわざ金貨も渡されたという事は、明確な選択をしろと言う事を表しているのだ、流石に気が重くなっても仕方がない。
「何をさせても腹が立つほどいい男で嫌な奴。金があって良い性格の男なんか、大っ嫌いだ。……でも、一応感謝するけどねぇ」
 自分を偽ってまで体を酷使する女性の姿は見たくない。
 その姿は宮奈と重なってしまう。
 相手に対する同情ではなく、そんな女性が一人でも居なくなって欲しい須臾の願望だった。それをソルティーに見透かされた様で、どうにも気分が良くない。
 もしかしたら同情されたのは自分ではないかと思いながら、一度貰った石を上に弾く。だが落ちてきた石を受け取る頃には、滅入りそうな気持ちを振り払っていた。
「さってと、マナに慰めて貰いますかね」
 気持ちの切り替えが恒河沙以上に早い須庚は笑みを浮かべ、どうすれば彼女が納得してくれるかを考えながら娼館へと向かう足取りは、思いの外軽そうに見えた。

「甘いのではなくて?」
 須臾の姿が見えなくなった頃に、ミルナリスが険しい顔付きでソルティーを咎めた。
 雇われ者に要求されるまま用立てるソルティーの気が知れないのだ。
「そうかな?」
「大甘ですわ。ああ言う事は優しさではありませんわ」
 間近なソルティーの鼻先に指を突き出し、悠長を通り越した彼の態度に、他人事ではないと腹立たしさを覚える。
 ただしソルティーの方は至って冷静だった。
「別にそんなつもりはない。ただ、知って欲しいと思っただけだ」
「何をです?」
「金で女性を買う事の重さを。あれを使っても使わないにしても、須臾はその事をあれを手にする事で嫌でも考える。人の価値を金では測れない事を、出来れば知って欲しいから渡した」
 須臾が娼婦を買い取れば責任が生じ、止めれば負い目が生まれる。どちらにしても須臾には一生消えない爪痕になる。
 それをどう須臾が消化させるかが見たかった。
 同情でも単なる優しさでもない、須臾を試すソルティーの言葉に、ミルナリスは突き出した指を下ろす。
「ソルティーはそんな女性達に同情した事は無くて?」
「無い。その身を何処に置くかを決めるのは彼女達自身だ。それに彼女達はまだましな方だと思っているから、同情するならその価値の在る者にする」
「女としては、その冷たいお口を抓って上げたいですわ。でも、反論出来ませんわね」
 総ての者が救われる方法があるならば、自分を犠牲にしてもそれをする。しかしその方法は、神ですら持たない。ならば一時の哀れみも持たない方が良い。
「偽善者には成り下がりたくない」
 ソルティーの漏らした言葉にミルナリスは返事を出さなかった。
 たった一人の大事な者ですら、人は完全には幸せには出来ない事だ。そして二人は出来なかった過去と向き合う今に存在する、無力な者でしかない。





 恒河沙が夜中に目を覚ますのは、珍しい。
 側に信用している誰かが居てくれるなら、余程の事がない限り目を覚ます事はなかったのに、此処連日一度は必ず目を覚ます。
 須臾が帰ってこない所為もあって、恒河沙の横にはソルティーが居る。だから余計に不思議だった。
 ソルティーの向こう側にミルナリスが居るのが気に食わないが、まあそれでも安心して眠れた筈だ。
 なのに必ず確かめてしまう。ちゃんと横にソルティーが居るかを。
 いつも彼の腕を掴んで眠って、今でもそれを掴んでいるのに、居なくなった様な気がして目を覚ます。
――ソルティ……居るよな…。
 ずっと以前にこんな感覚が浮かんだ覚えがある。
 今にも消えてしまいそうな不安。
 振り払いたくてソルティーの胸に額を寄せた。
 そしてもう一度眠りに入ろうとした瞬間、体が勝手に覚醒した。
――危険――
 単純にそう体が感じ、次の思考よりも先に言葉が喉を突いた。
「逃げろっ!!」
 二部屋借りたのにもかかわらず、須臾が居ない為にソルティーの部屋に集まる羽目になった全員が、恒河沙の声に一斉に目を開けた。
 恒河沙がシーツを剥ぐのと同時に、暗いはずの外は昼よりも明るくなった。
 目映い、赤とも白とも認識する暇もなく光が現れ迫り来る。
 光源は宿屋の前を通る道に突如発生し、膨大な熱を周囲に放ちながら直ぐに、窓と壁を破壊しつつ侵入を果たすと、同時に部屋の中央で破裂した。