刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
「うん。だから職務怠慢な傭兵さんは、今夜も宿には戻らずにマナと良い事する事に決めました」
「須臾……」
「だから、明日は朝起こしてね。夜までにまた此処に来れば、マナが相手してくれるんだろ?」
自信満々に両手を広げる須臾に、マナは一度だけ困った顔を見せたが、直ぐにいつもの様に笑みを造って広げられた両腕の中に体を潜り込ませた。
明日の事を信用するつもりも、期待するつもりも一欠片も無い。
それでも何処か、少しだけ忘れかけていた嬉しいと言う感情を蘇らせながら、マナは何も言わずに瞳を閉じた。
須臾が久しぶりにソルティー達に顔を見せたのは、ハーパーを除いた三人が朝食の為に立ち寄ったロシュと言う店でだった。
「もう捜した捜した。この街ってば恒河沙好みの店だらけで困るよ」
これでもかと言う程に血色の良い顔で椅子に座り、当たり前の様に自分の分の料理を注文する。
「須臾、今日は戻ってくるのか?」
この数日帰ってこなかった分、それなりに寂しかった恒河沙が須臾の袖を掴んで聞き、それを須臾はばつの悪そうな顔で謝った。
「ごめん。マナに必ず戻るって約束したから」
「そうなんだ…」
「本当にごめん。色々あってさ、明日はちゃんと宿に戻るから」
「ほんと?」
「約束するから、ね」
そう言ってから須臾は、チラッとソルティーに視線を送った後恒河沙の額に口付けた。勿論ソルティーをからかう為の行為に恒河沙が気付く筈もなく、更に彼の誤解を深める事になるだろう。
見せられた方にしてみれば、「もういい加減止めてくれ」と叫びたいが何も言えずに、嫌味な笑みを睨み付けるだけだった。
「うん、分かった」
保護者二人の言葉無き言い合いに気付かない恒河沙は、たったそれだけで機嫌を治し、須臾に向かって嬉しそうに頷くと、中断していた食事に戻った。
それを見て須臾はほっと胸を撫で下ろした。
夜に恒河沙が眠れない状況であるなら、ソルティーが必ず自分を連れ戻しに来ると信じ、結果としてそうならなかったから娼館に入り浸っていた。そして今の状況にも須臾は満足していた。
少しずつ自分が居なくても大丈夫になっていく恒河沙に、それなりの安堵を感じたのだ。
思い描いていた結末ではないにしても、恒河沙が一人で考え出している事は否定してはならない事だろうと。
送れて参加した須臾の食事が終わる頃には、恒河沙の食事も終わりに近付いていた。
腹が満たされる事に不機嫌さは収まり、最後の一口には完全に須庚の女遊びが気にならないほど恒河沙の機嫌は良くなった。
それでも食事中の話は大抵須臾に向けられていたのは、此処数日話せなかった分の無意識な補充だろう。
「なぁ須臾、強いって何?」
他愛のない話から急に真剣な話になるのは恒河沙の常だが、重い話になる事はそう在る事ではない。それ故に、この質問には須臾は目を瞠った。
ソルティーも同じらしく、二人掛かりで元になった話を細かく聞き出していった。
その結果どうやら昨日もケトカの仕事を見に行った際に、ケトカがそれを示唆する話をしたらしいのだ。
『この剣に頼ってばかりじゃ強くなれねぇぞ。このままじゃぁこの剣は弱くなっちまう。早くこの剣を使いこなせる位の強さを探すんだ』
何を探せばいいのかと聞いてはみたが、それすらも探せと言われれば、恒河沙の頭では抱え込む事にしか利用できない。
一晩考えたが、どうもケトカの言葉に意味がよく判らず、結局はずるをしてしまったと言うわけだ。
「強さねぇ…。まあ僕は、護る人かな。大事な人を護る為に強くなれると思うね」
そう口にしながら、それを失いつつある自分に須臾は苦笑した。
「護る人が居たら本当に強くなれるのか?」
なら今の自分は充分それを手にしているはずだった。
なのにケトカは今の恒河沙には無いとはっきりと言い切った。
「う〜ん、まぁ、少なくとも僕はそう思うけど……」
一概には断言できないとする須臾に、どうしてかミルナリスが口を開いた。
「私は使命だと思いますわ。心に刻み込んだ己の役割が、何事にも怯まない強さを導きますわ」
「使命? でも、それが間違っていたら? この世の中に、絶対なんて言葉はないよ。何事にも怯まないと思っても、それがもし自分の心に反する事だったら、僕はそれには従えない。それなら弱くて良い」
「間違いの無い使命を見極めるのも、一つの強さではなくて?」
「間違いの無いって言うのが気に入らない。それって、自分さえ正しければ、他の考えを持つ人を傷付けても構わないって事だろ」
「でしたら、もし貴方の護る人が、多くの人を傷付ける様な人ならどうなされます? この世の中に絶対は無いと申されましたが、私の意見が貴方の意見にどれ程の違いが在ると言うのですか?」
ミルナリスに正論で返され須臾は言葉を失うが、彼女を見据える瞳は鋭さを増すばかりで、それに応える瞳もまた冷たくなっていった。
「……ソルティーは?」
睨み合う二人から視線を外し、恒河沙は黙ったままのソルティーに答えを求めた。
「私か?」
やっと口を開いたソルティーに須臾達の視線も加わる。
直ぐにもたらされると思っていた彼の答えは意外と時間を要し、そして誰も考えていなかった答えが出された。
「…恐怖……かな」
「恐怖? どうしてぇ、それはおかしいよ。こいつが聞いてるのは強さに必要な事だろ、それじゃぁまるっきり逆だよ」
期待はずれなソルティーの言葉に須臾が呆れ、ミルナリスは堅く口を閉ざした。
「人それぞれの強さだろ? だから私は恐怖、恐れだよ。失う事が恐くて仕方がない。それは二人と同じ事だ。果たさなければならない事から途中で降りたくないし、大事な人を失いたくもない。もしも失う事になるなら、消えた方がましだ。だから生きたいと思うし、負けたくないとも思う。私の大事な事柄総てを失うかも知れない恐怖が在るから、私は負けない強さが持てると思っている」
「負けない強さ? 勝つじゃなくて?」
恒河沙はどうもよく判らないソルティーの言葉に首を傾げる。
勝利がなければそれは負けだと思っていた。勝利のない事に強さもないと信じていたのに、ソルティーは恒河沙に頷きながら「勝つ事は必要ない」と言った。
「少なくとも、私にはね。今の私には、今私を取り囲む世界が失われなければそれで良い。勝つ事で失われる事もこの世には在るから」
「……そんなのあるのか?」
「私には在った。だから人それぞれだ」
ソルティーがまだ現実を知らなかった頃、王位継承と言う馬鹿げた争いに、どれ程の者が傷付けられたことか。
もしもハーパーが居なければ、第一王位継承者はソルティーの異母兄になっていただろう。
しかしソルティーがその地位を得た代わりに、兄弟を失った。
目に見えない確執。当人達を介さない大人達の諍いは、在りもしない疑いばかりを引き出した結果から。
「綺麗事だと言われるかも知れないが、自分自身が負けだと思わない限り敗北は無いと思っている。勝利を手にした為に大切な人を失うなら、身を引くのも強さの一つだと、私は信じている」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい