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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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 自分が一瞬だけ放ってしまった内心の動揺を、知っている筈とミルナリスは切り出す。
 言われた方は特に驚く様子は無かった。
 ソルティーは読んでいた本から一度だけ彼女に視線を送るだけに止め、返事をした時には視線だけは文字へと向けてからだ。
「判っている。無理に聞き出す気は無い」
 彼女を追求する気持ちは、数多くの書籍を読むに従い失せていた。
 ただその言葉だけでは、彼女が納得出来るとも思わなかったのも、また事実だったが。
「私の気持ちは真実ですわ。疑われても仕方は御座いませんけれど、私もそれ程器用な者では在りませんから」
「別に疑ってはいない、知りたく無いだけだ」
「………」
「だから、何も……言うな。聞きたくない」
 ソルティーは読みかけの頁を閉じ、改めて彼女へと向けられた瞳には、哀れみとも同情とも伺える感情が浮かび、同時にそれは彼自身にも向けられていた。
 ソルティーがこの資料館に足を運んで直ぐに調べたのは、魔族に関する史跡だった。
 ある時を境に突然人の世に現れた魔族。その存在をソルティーは知らなかった。彼の知る時代にその存在は別の存在としてこの世界に位置していたのだから。
 時代の移り変わりと共に呼び名が変わる物は確かにある。しかし問題は別にあった。
 当時その片鱗が確かに在ったとしても、今ほどはっきりと確立した存在ではなかった魔族であるが、その主はソルティーの知る限り、樹霊王ウォスマナス。
 ただこの知識はソルティー個人の事実ではなく、与えられた事実だ。
 彼という個人を動かす為に、瑞姫達が与えた彼女達の事実であり、真実ではない。
 だからその事実に、ある程度の人の世の歴史を符合させ、推測と憶測を織り交ぜてソルティーは自分なりの結果を出そうとした。
 そして、結論に至る直前に思考を止めた。
 閉じた本の表紙を眺めたまま、何も語ろうとはしなくなったソルティーに、ミルナリスは彼の手にそっと触れた。
「お知りになられるのが、それ程恐いのですか?」
 試している彼女の言葉に、ソルティーは素直な気持ちを現した。
「恐いに決まっている」
 声を震わせ、手にしていた本をテーブルの上に置く。
「やっと手に入れられたのに、それをまた失うかも知れない。どうして平静でいられると思う。お願いだからこれ以上、私から奪わないでくれ……」
 高望みを抱いている訳ではない。ただ側に居てくれさえすれば良かった。何時か必ず訪れる別れを切り出すのは、自分でありたかった。
 綺麗事を口にするつもりはないから、背負うのは自分一人だけで済ませたかった。
 ミルナリスを見ず、泣き言に近い言葉をソルティーは続けた。
 彼女に言う事が如何に彼女を傷付ける言葉かを知りつつ、それでも言える相手が彼女以外には居ない。それが自分の愚劣な弱さだと知りながら。
「今のあの子を消さないでくれ。神の身勝手をこれ以上私に押し付けないでくれ」
 重ねられたミルナリスの手を振り解きもせず、ソルティーは膝に置いた手を強く握り締める。その手をミルナリスはしっかりと掴んで放そうとはしない。
 今この手を放せば、もう二度と自分は彼の前に姿を現せないと心の何処かが訴えた。
 それでも、薄い唇を噛み締めミルナリスは退けられない言葉を口にした。手を振り払われる事を想像しながら。
「主は、貴方の意思に反するでしょう」
 ソルティーの肩が一度だけ大きく震えた。
 ミルナリスの目には絶望を現す顔が歪んで見えた。
「貴方にとってこの事は、何としても避けたい事なのは判っております。でも、主には避ける事の許されない事。……一つだけ、これだけはお教えします。主はシェマス様とも異なるお考えをお持ちです。恐らく、主はシェマス様方を、お止めします」
「……その為に…」
「ええ、その為には貴方と恒河沙様、いえ、アヴァヅィラムプロヴィザイアは共に居ていただきます」
 わざわざ言葉にしなくとも良かった事を、はっきりと口にしたのは、ミルナリスなりのけじめの言葉だった。
 幾ら彼が思考を止めたとしても、彼女の識る結末は変わらない。
 後に退かない為の、既に真実を知りながら否定しようと藻掻いている者への、最終宣告として。
――どうして、思った通りにはならない。一欠片の慈悲もなく、どうして神は私から奪う事を止めないんだ。
 爪が掌に食い込む。痛みを伴わない痛みが胸を締め付け、俯いた顔を上げる事さえも出来ない。
 現実を見る事が辛く、逃げるように目を閉じると、自分に向ける真っ直ぐな瞳を持つ恒河沙の笑顔が浮かんだ。
――お前まで居なくなってしまう……。
「初めてだった……、これ程誰かを必要だと思った事は初めてだったんだ。なのに、それすら神は許してはくれないのか。あの子が私を覚えて居てさえくれれば、生きてさえ居てくれればそれで良いのに、それさえ過ぎた望みだとお前達は言うのか」
 一度大切な者を失った過去の脅えが沸き立つ。
 全てを奪った灰色の影が、たった一つの光さえも奪おうと忍び寄り、怒りと悔しさと悲しみが同時に胸を押し潰そうとした。
「ソルティー…」
 何れこうなると思っていたミルナリスは掴んだ彼の手を放し、背伸びをして両腕で彼の頭を抱き締めた。
「まだ決まった事ではありませんわ」
 やっとソルティーに届く位の小さな声で、言ってはならない言葉を口にした。
「喩え、予め決められた結果が待っていたとしても、これから起こる事に、必ずと言う言葉は無い筈」
「………」
「私達が逃れられない運命だとしても、少なくとも、今の彼は今在る存在。私達とは異なる存在」
「……異なる存在?」
「ええ、私の、主を介さない私の言葉ですわ。恐らく、いえ、必ずに近い言葉として、今の恒河沙様は主の思惑とは……別。使役としての私の役割は、貴方とプロヴィザイアを彼の地へお連れする事。それは逃れられない私の運命。――ですが、それからの運命は、必ずしも同じとは言い切れませんわ。決めるのは私達でも主でもありませんわ。決めるのは力在る者の意思」
 ゆっくりと腕を解き、俯いたソルティーの頬に小さな手で触れる。
 泣きそうな顔に微笑みを浮かばせ、導く様に彼の顔を上げさせた。
「私達が出来る事は、恒河沙が恒河沙で在る今を、彼自身に心の底から望ませる事。主の予定調和を退けられる力を彼に持たせる事」
「ミルナリス、君は……」
 役目を持った者が決して抱いてはならない心の言葉にソルティーは戸惑い、その彼の顔にミルナリスは子供の笑みを見せた。
「前に言いましたでしょう? 私だけが貴方の事を理解出来ますと。人であって人でない貴方と、魔族であって魔族ではない私。私達が何をどうしても逃れられないのなら、逃れられる道を持つ者を、一人でも多く逃がして差し上げたい」
 自分の役目を口にする時よりも気楽な言葉に、ソルティーは彼女の言葉が本来の言葉なのだと感じた。
 ただその言葉がミルナリスにとってどれ程危険な言葉かも、同時に理解しなければならない言葉だった。
「その言葉を口にして良いのか。今の君は、君なのだろ?」
 ミルナリスは自分を気遣ってくれる言葉に、嬉しそうに小さく頷いた。