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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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episode.30


 見えるもの総てが、実ではない。さりとて見えないもの総てが、虚でもない。
 虚が在り実が在るのが世界と言え、それぞれが見聞きし感じる物が世界であり、それらは決して一定でも広くも狭くもない。

 見ようとしなければ見える事はないだろう。
 見ようとしても見えないものとて在るだろう。
 見ようとしなくとも見えるものも在るだろう。

 総ては、人の心が決める総てでしかない。
 有限と無限が混ざり合って肥大する世界を、見る事も、見ない事も、総ては人の思うがまま……。


 * * * *


 当初の目的としてソルティーが鍛冶屋を捜していたのは、ササスで取り戻したローダーの鞘を加工する為だった。
「勿体ねぇなぁ、本当にいいのか? 全部外してしまって?」
 グリシーンが手にした鞘は、大小の宝石を全体に鏤め金や銀もふんだんに使用しての細工が施されている。元々カラの国では国宝とされていたのである、その名に恥じない装飾が施されるのは当然であり、装飾を施した者の腕もかなりの高さであったろう。
 ただそれだけに人の目に触れやすくなってしまうのも、否めない現実だった。
 勿論、簡単に取り外す事が出来るなら行っていた。途中あまりの盗賊寄せぶりに呆れた須庚が、鞘を別の物に交換するようにも提案したが、ソルティーは頑として首を縦に振らなかった。
 無理をすれば鞘が壊れるかも知れない。そんな危険を冒すくらいなら、もうこのままでも構わないと思っていたが、恒河沙の大剣を手にする事の出来る程の腕ならと頼んでみての返事が、先程の手応えを感じさせる台詞である。
「出来る限り質素で良い。取り外した物も必要ないから、そちらで処分して欲しい。――ただし、表には出さない方が良い物だが」
 ソルティーが付け足した台詞に、グリシーンは一度だけ片方の眉を上げた。
 グリシーン達からすれば、剣には二つの種類しかない。一つは戦う為の剣で、もう一つが戦えない剣だ。
 戦うかどうかは無論持ち主が決める事ではあるが、剣は元々消耗品でしかなく、何より敵を殺す為の道具である。持ち主の中には、飾り立てる事で己を誇示する者も確かに存在するが、殆どが使用する事を前提に剣を選ぶ。
 握りやすさ振りやすさ、そして戦いやすさと殺しやすさ。
 実戦に近ければ近いほど装飾は邪魔になり、剥き出しで持ち歩く者も居る。
 戦う為の剣を選ぶ時に装飾を施したがる者など、熟練の剣士ほど減ってくるのが現状で、飾り立てる者が居るならそれは単なる目立ちたがり屋か、兵の一団を率いる為に目立たなくてはならない性を持つ者だけだ。場合によれば無駄な装飾が死を招く事もあるのであれば、確かにこの鞘の装飾は無駄ばかりである。
 そして本来剣と鞘は同体であり、やはり安易に取り替えれば肝心な時に鞘から抜けなかったり、逆に抜け落ちる場合もあった。だからこそソルティーがそのままの鞘を使い続けたいと考えるのは、グリシーンには至って普通の認識で受け止められた。
 しかもその外した宝石を、惜しみもせずにくれると言うのだから、阿河沙に関係する者は矢張り変だと思う程度だ。
「それとこの鎧も頼みたいんだ。肩当ての繋ぎが少し緩くなって、他も随分傷みだして、この通りだ。修理をお願いしたい」
「へぇー、これは年代物だな」
 ソルティーが外そうとしている鎧をまじまじと見つめ、その出来映えにグリシーンの顔が自然とほころぶ。
 恒河沙も以前絶賛していたその鎧は、確かに古く使い込まれているが、これを造った者の腕の凄さを忍ばせている。技術や素材の良さはさる事ながら、造り手の思いが確かに伝わる逸品だ。
「代々受け継いできた物だから、相当の年寄りだ。修理も簡単ではないと思うが――」
「いや、言わせて貰えば、これは有り難い物だ。ほらここを見てみな、今じゃこの技法は高度過ぎて一般的には使われてねえんだ」
 グリシーンは鎧の裏の継ぎ目を指し示し、嬉しそうに語った。
「こういうのは俺や弟子達にも勉強になる。鞘もこれの修理も、金は要らねぇよ。これで頂戴したら、親父にどやされかねない」
 嬉々とした表情のまま、受け取った鎧と剣と一緒にテーブルの上に広げていた布の上に置くグリシーン姿は子供のような高揚感に包まれ、ソルティーにさえも彼の職人としての誇りや楽しさが垣間見えた。
「他には無いか? 有るなら、他の仕事は全部後回しに仕上げてやるぜ。なんせ、アガシャの息子の連れだからな」
「……そうだな…鎧の他は、ああそうだ、鎧を新調したい。私のではなくて……」
 ソルティーは周りを見渡し、鍛冶場の奥の方でケトカの作業を見学させてもらっている恒河沙と須臾に目を向けた。
――気付くか?
 そう思った瞬間に此方を振り向いた恒河沙が、トテトテと嬉しそうに近づいてくる。顔には「なになに? なんか用?」と好奇心を浮かばせ、ソルティーは思わず笑いを堪える為に口に手を当てた。
――まさか本当に気付くとは……。
 勘が鋭いと言うより、野生の本能に近い物を感じる。いやそれよりも、妙に嬉しい。
「どしたんだ?」
 呼ばれたと思ってソルティーの所に来てみれば、何故か最初は少し驚いて、それから楽しそうに笑っている。
 そんな疑問を浮かべていると、「おいで」と背中に腕を回されてグリシーンの前に立たされた。
「この子のを造ってくれないか?」
「ほぇ?」
「身軽さが長所だから、成る可く動きやすくて、出来るだけ軽いのが良い」
「だろうな。丁度上質の鞣し革が手に入ったばかりだから、それを使おう。そうだな、縁取りに白銀の透かし彫りなんてのはどうだ?」
「任せる。それはちゃんと払わせて貰うから、良い仕上がりを期待している」
 恒河沙の全身をグリシーンが見渡し、もう既に彼の頭の中には図案が浮かんでいるのだろう。
 鍛冶場だからと言って、剣だけを造る訳ではない。武具全般が彼等の仕事だ。それに、その武具に付けられる装飾品も、総て彼等の手によって造られ、彫金の腕は何処の宝飾商にも引けを取らない。自信ありげな様子に曇りはなく、ソルティーが他に何かを付け加える隙など微塵もなかった。
「なんの話?」
「お前の鎧を頼んだ。それはもう傷んでいるし、少しでも背丈が伸びているなら、此処に居る今の内に新しいのを用意した方が良いだろう」
「ほんと? ほんと? やったぁ!」
 恒河沙は両手を振りながら飛び上がって喜んだ。――だが少しして、急にその動きが止まった。それだけではなく、次に吐き出された声はあまりにも彼らしくない沈んだ声だった。
「……少しでも、なんて…酷い……。どうせ…身長伸びなかったよ……」
 元気一杯に振り上げた拳を今度は力無く降ろし、ソルティーにさえも背中を向ける始末だ。その後ろ姿には珍しく哀愁も感じられ、実は彼が身長の事を気にしていたのをソルティーが気付くには充分な程だ。
 以前ディゾウヌに啖呵を切ったものの、恒河沙の身長はソルティーと出会った頃と比べても、10デラス程度も伸びていない。別に身長を気にするつもりは無いが、改めて言われると恒河沙だって少しは傷付くのである。