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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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episode.28


 波紋が一つ産まれた。その波紋は一体何によって引き起こされたのか。
 投げ込まれた石によってか、それとも水泡が一つ消えたのか。もしかすると、其処に誰かが降り立ったのかも知れない。
 いや、波紋は水面にだけ現れはしない。
 大気の中にも、物質の中にも、人の中にも波紋は広がる。
 そして、その波紋は異なる波紋と触れ合い、幾度となく衝突を繰り返しながら形を変え、世界中へと響きを伝えていく。


 * * * *


「だぁぁぁぁっ!!! このくそ婆っ、いい加減にそこからどきやがれっ!」
 静かな農道に響き渡る、怒り心頭の叫び声。
 それは此処数日のありふれた光景のほんの一つだ。
「あら、この様にか弱い姿の者に、どうしてそう意地悪を仰られるのかしら?」
 怒鳴り声に冷静な声で返す可愛らしい少女の声も、また同じ光景である。
「いい加減ソルティーから降りろっ!!」
「まあ、恐いわ。どうお思いですか?この様に口汚く罵られる事を、私はしているのかしら、ねぇソルティー?」
「…………」
 ミルナリスは態とソルティーの耳元に、少女の姿には似合わない艶を含んだ声で話し掛ける。怒りに真っ赤になる恒河沙と言葉に詰まるソルティーの両方を、彼女なりに楽しんでいるのは、恒河沙以外には明白だった。
 ただ何も理由もなく、彼女がソルティーに抱えられているわけではない。
 口は誰よりも達者なミルナリスでも、姿は恒河沙よりも小さな子供。彼女の歩幅に合わせて歩いては、次の街に辿り着くのにどれだけ掛かる事か。しかも彼女のあからさまに“ソルティー以外は塵虫以下”な態度は痛烈で、結局は災難を自ら呼び込んだソルティー自身が彼女を運ぶ役目になった。
 とは言え、それを恒河沙が我慢出来たのは、シャリノの屋敷を出てからの半日だけ。
 既にその日から早半月余りが経過し、実に毎日が賑やかに過ぎていった。

 もっともそう思っているのは、他人の、それもソルティーの苦労している様を見るのが楽しくて仕方がない須庚だけだろう。
 例え少女であっても女という字が付く者全てが自分の物だと言い切る彼でも、ミルナリスだけは別だ。
 自分達の所為で殺されたミルナリスと、今目の前に居る彼女の関係が、果たして彼女の言うとおりなのかは判らない。しかしそれ以上に精霊と呼ばれる存在が、ああして触れられる肉体を持つ事の異常さは、極めて異質と言わざるをえない。
 勿論彼女から何かを語る事は無く、無いからこそ馴れ合う素振りを見せようともしない。
 特にハーパーとは最高に最悪な状態を維持し続けている。ミルナリスからすれば恒河沙はからかう相手なのだろうが、ハーパーに対しては露骨な反論を繰り返していた。
 それも端で聞いていてもぐうの音も出ない程までに徹底的に。
 人の身では知られていない何かしらの確執が精霊と竜族の間にはあるのは、恒河沙対ミルナリスの時の様にソルティーが口を挟まない事からも判る。互いに種族の誇りで対立する高位者の舌戦では、とてもではないが安易に止められないのも事実だろう。
 ただしやはり恒河沙とは違って学習能力のあるハーパーは、暫くすると口を閉ざすようになった。
――口を滑らすほど馬鹿じゃないか。
 ハーパーは当然の事ながら、ミルナリスもソルティーに関して何か知っている。その二人がソルティーを挟んで言い合いになれば、何かしらの襤褸を出すだろうと須庚は考えていたが、そんな事になるのはこの中では恒河沙くらいだ。
 だからこそ須臾だけが、今では暢気に周囲の状況を笑っていた。
 相変わらず余程の事がない限りは、傍観者を貫く姿勢を保つ。そうでもしないと、この嫌な構図を見る事は出来ないのだから。
 大の大人の男性を、年端もいかぬ少女と青年に成る前の男子が取り合う場面など、中に加わりたいとは思わない。
 しかもその場面の中心人物が狼狽える様を見るのが、何よりも楽しいのだ。中に割ってはいるつもりなど、浮かんでくる筈もないだろう。
「ソルティーが疲れるだろっ!」
「あらあら、ソルティーはそんなにも非力では御座いませんわ。まあ私とは違って、貴方の様に軽くは無い方では、到底ソルティーも長時間抱き上げる事は、不可能でしょうけど」
 ミルナリスはソルティーの肩越しから恒河沙を見下ろし、勝ち誇るように笑う。
 どうしても人生経験の歴然とした差と、単なる知能の差から、恒河沙がミルナリスに言葉で勝てる筈がない。
 最後には必ず、
「くそ婆っ!」
「豆粒頭」
 この程度の言葉の応酬をして、睨み合う低次元の口喧嘩になる。
 よくも毎日毎日、同じ事で喧嘩が出来るものだと感心するが、耳元で騒がれるのは限度がある。
「恒河沙、ミルナリス、煩い」
 二人のどちらを見るわけではないソルティーの呟きに、二人同時に口を手で塞ぐ。
「貴方の所為ですわ」
「お前だろ」
 小さな声で互いに責任を擦り付ける二人に、もう一度ソルティーが「煩い」と呟き、やっと農道に静けさが戻った。
 もっともそれがそう長く続かない事は、恒河沙とミルナリス以外には判りきった事だったが。



 ウィルパニル国内でも東に位置していたシャリノの隠れ家から、一端旅の軌道修正をする為に一行は直ぐに北へは向かわず、西の隣国ツォレンに向かった。
 シャリノに渡された地図には、彼の手による添え書きが幾つもあった。地図には無い裏道まで付け加えられ、遠回りとなりそうな経路を選ばなくても済むようになっていた。
 この調子で行けば、ウィルパニルの旅は大凡二月半の行程と考えられる。
 考えられると言うのは、ウィルパニルには幾つかの山脈が在る為だ。
 シャリノが示した道筋は山脈越えが基点となっていた。標高はそれほどではないが、一端山に入ればその間は何があっても補充が出来ない事だ。
 特に恒河沙の食事は問題が多い。どんなに彼が我慢して口に出さないようにしたとしても、雄弁に語る腹を持っている。
 しかも先日の一件以来、ハーパーと恒河沙の確執は根深く残っていた。
 『主が許しても、我は許さぬ』その言葉通りに、ハーパーの恒河沙への態度は、ミルナリス以上に厳しいと言えた。徹底的な嫌悪を対象とし、とても彼の為に動く事は、幾らソルティーが話をしたとしても無理だろう。
 結局は、一番標高の低い山を除いて迂回する事になった。その道を決めたのはソルティーだが、この事は恒河沙を標的にするミルナリスにはまたとない虐めの材料で、ハーパーは聞こえよがしの小言を口にした。
 この決定で一番落ち込んだのは恒河沙ではなく、寧ろ決定権を持つソルティーの方だ。
 須庚から見ればミルナリスを追い出せば、問題の大半は片が付く。それはソルティー自身も簡単に判る話であり、だからこそ今の状況に苦慮している筈が、落ち込みながらも彼のミルナリスへの態度は何かが違っていた。

――さてさて、今度はまた何を隠しているのかねぇ。



 次の街を出ると、予定していた街と同じ名のクハンと言う山に入る。
 クハンに入る寸前の野宿で、焚き火の見張りは恒河沙になった。
 消えそうになる火に拾い集めた枝を放り込みながら、横目で見てしまうのはソルティーだけだ。そして彼の隣で眠っているミルナリスを、何度踏み殺してやろうかと思った事か。