刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
どうしてソルティーを止めてくれないのか。どうして彼の言われた通りにしかしないのか。
まるでみんなが揃ってソルティーに死ねと言っているようだ。
「なんで死ぬって言うんだよっ! 俺と一緒に旅するって言ったじゃないかっ! それだって約束じゃないかぁっ!!」
恒河沙の叫び声から逃れるように、慧獅はソルティーの腕を掴んで空へと上げた。
「俺は謝らない。だから、俺だけを呪え」
それが慧獅の精一杯の言葉であった。ソルティーは何も言わなかった。どの様な返事をしても、受け止めた後の慧獅の気持ちは変わらないと思ったからだ。
「ソルティーッ、駄目よ!!」
上空から瑞姫の声が響いてきた。こちらも晃司に止められたまま動けずにいる。
眼下には増殖を繰り返すだけの肉塊が、盛り上がったり窪んだりと不気味な運動を行いながら、じわじわと体積を増やしていた。
増殖するたびに瓦礫にぶち当たり、角を生やして破壊する。もうすぐ全ての塔を飲み込む面積となり、城を取り囲む城壁だけを残す。
――……私が狂っていれば、こうなっていた。
どこか静かな気持ちで、ソルティーは下から押し寄せてくる力のみを感じていた。
創造主シルヴァステルが創り上げた世界は、彼が意思の存在であった為に、意識が力を制御できるたった一つの方法だった。
鍵として使える体を、そのままに使わなかったのは、意思を持たない力の恐ろしさがあったからであり、一つの結果が足下にある。
「お前等っ! 一体ソルティーをどうするつもりなんだよっ!! どうしてソルティーだけにさせるんだよっ!!」
劈く様な恒河沙の言葉に、彼と同じく止められない瑞姫が唇を噛む。
「ソルティー止めろよっ! こんな所でソルティーが居なくなったら、俺どうすればいいんだよっ! 教えてよっ!!」
「此処で良い」
大きく肥大した肉塊の真ん中付近で、ソルティーから言った。慧獅は空中での動きを止め、ゆっくりと手を離した。
それでもソルティーの体は浮かんだまま空に停まっていた。ソルティーの周りごと包み込むように、両腕を広げた慧獅の力によるものだろう。
張り巡らされた透明な壁に覆われたソルティーは、左手を上げると左耳に掛けた。
《眠りの中の言霊よ、血を礎る万物よ》
静かな力在る言葉は、刻み込まれた内なる力に向けられ、残っていた四つの封緘に輝きが生まれた。
その一番下の封緘を、指先の小さな動作で外す。
――意外と、楽しかったな。
漠然とした喜びだけが、ソルティーの心に浮かんだ。
後悔でも、悲しみでも、寂しさでもない。こんな気持ちで最後を迎える事になるとは、旅を始めた時には正直欠片も思っていなかった。それだけに恒河沙が冥神を退けるその時まで、心には確かな影が在った。
《我携えし古き力の命言に従い》
次の封緘は、血を伴って外された。
耳朶からの血が顎へ伝い、足下の肉塊に落ちていく。
――作れると思ってもいなかった友達も出来た。
他愛もない話をし、下らない事で笑える。拳を使う喧嘩も、時には必要だと知った。
特別な存在を手に入れるのに、特別な事は何一つ必要無い。当たり前の事を続けていく中で、特別な存在に育っていく事が大切なのだと。
ありのままを受け入れる事が出来たのなら、それは自然に手に入るのだと、やっと自分で知る事が出来た。
《今此処に、新たなる誓いを刻まん》
二つの封緘を指から落とし、三つ目に指が向かう。
――短い時間で沢山の事が判った。
良い事も、悪い事も、それを経験してみなければ、知る事は出来なかった。無駄だと思っていた自分と言う存在が、今では感謝する存在になった。
死ぬと判っていて尚、産まれてきて良かったと、そう思えた。
「嫌だーーーーーーーーーーーっ!!」
恒河沙の叫びは、ソルティーに向かって伸びていく無数の触手を見たからだ。
慧獅の守りで直ぐには辿り着けない。しかし力を求めて食い荒らそうとする肉塊は、固い防御壁を侵蝕しようと絡みつき始めた。
「そいつはそんな安い餌じゃねえんだよっ」
全ての呪戒を解く前に、肉塊に喰わせるわけにはいかない。出せるだけの力でソルティーを護る壁を固める慧獅の下では、彼の放つ力の流れに肉塊が反応し始めた。
“慧獅、お前も危ない。離れるんだ”
「黙れ卑怯者! 俺はお前達の所にまでは堕ちたりしない!!」
額から汗を流しながら慧獅は呻る。自分に対しての防御など何もしていない。耳には絶えず、気が狂ったような恒河沙の声が聞こえていた。
《荒ぶる者と、猛き者の名に於いて》
三つ目の封緘が外された。
――本当に、思い残す事が無い位だ。
ソルティーは四つ目に指を添わせながら、少しだけ動きが止まった。
三つの封緘を外した為に、ソルティーは何も聞こえていなかった。感じられなくなっていた。
それでも恒河沙が、自分の所為で泣いているのが判る。叫びを上げているのが感じられる。
抱き締めて、キスをして、慰める事が出来るのなら、今すぐ駆け寄ってそうしたい。しかしもう、自分には何も出来ない。それが胸を抉られるよりも痛いと感じた。
自分を動かしていた力を失いかけて、本当にやっと自分の気持ちに正直になれた。
――誰でもなく私自身の、本当の気持ちだった。
出逢った頃は、余計な荷物を選んでしまったと、正直何度も出逢い自体を後悔した。どうしてこんな子供に振り回されるのかと、肩を落としたのも数え切れない。
それでも真っ直ぐに目を見て話をしてくる態度は、好感が持てた。
子供だからだと、馬鹿だからと思って相手をしている内に、いつの間にかそれが気に入っていた。
突き放しても、怒鳴っても、必ず着いてくる。気がつけば、いつも隣にいてくれた。
向けられた視線に気付かないふりをしても、何時も根負けしてしまう。それだけの強さが常にあった。
少しの笑みは、元気一杯に返された。
自然と護りたいと感じた。
自分だけに向いていて欲しいと願った。
――私が、私自身が好きだったんだ。誰よりも、本当に、愛していた。
今更ながらに、もっと別の言葉にすれば良かったと思う。
恒河沙の事を知れば知る程、先刻の言葉は叶わない願いだ。
――しかし、言えなかったんだ、忘れろとは。忘れて欲しくないんだ。
見上げる事しか出来ない恒河沙の目には、ソルティーが何をしているのかまでは見えなかった。
彼を取り巻く触手は離れず、これ以上放っておけば飲み込まれてしまう。どうして早く逃げないのか。答えなど簡単で、だからこそ叫ぶのを止められない。
「ソルティーの馬鹿ぁーーーー!! どうして俺の言う事は聞いてくれないんだよっ!! 自分ばっかり勝手な約束してっ、俺がそんなの出来る筈がないだろっ!!」
理不尽な約束は、既に破られている。
少しでもソルティーの側に行こうと身を捩り、ハーパーの腕の中から身を乗り出す。ハーパーの腕に爪を立て、喉が潰れそうなほどの大きな声を張り上げる。
それなのに、ソルティーは帰ってきてくれない。先刻のは冗談だよと、言ってくれなかった。
最後の封緘にソルティーが力を入れた時、瑞姫の声が灰色の空に響いた。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい