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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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 此処へ自分達は何をしに来たのか。誰のお陰で此処に来られたのか。そして、何が出来たのか。慧獅は自分自身に問い掛けた。
 何もしていない。
 結局シルヴァステルも、オロマティスも、自分達が何もしない内に終わってしまった。
 そして今、目の前に現れた物を破壊する事も出来ずに、またソルティーに頼ろうとしている。許せない。自分の力の無さが、許せなかった。
 瑞姫の悲痛な叫びは聞こえていた。自分も同じ気持ちだと言ってやりたいと思う。しかし言えない。この状況を前にして、言えるだけの力も手立ても無かった。
 慧獅は瑞姫の悲鳴を聞きながら、ソルティー達の前に立った。
 彼等は肉塊から距離をとった場所で地上に降り、ただ心配げな表情をソルティーに向けていた。
 彼が生きているのか死んでいるのか。その判断は慧獅にも難しかった。
 瑞姫が見つけた時から、ソルティーは死の中で生きているような状態だった。亜空間の時の流れは極端に遅く、世界で五百年が過ぎても亜空間では十年しか進まない。彷徨うだけの十年の間に、ソルティーの精神は破壊し尽くされていた。
 肉体は健康であっても、心が死んでいればそれは死と同じだと慧獅は思う。しかし今はその逆で、死と定義づけられる肉体の中で、ソルティーの心は生きている。果たしてそれは死んでいるのだろうか。
――考えても仕方ないか。……俺が死に神になるのは同じ事だ。
 どう見ても悪化し続けている肉塊の状況がある中で、突然やってきた慧獅を見る目は、どれも懐疑的であった。
 彼の緊張した表情に、決意した口元。何かが起こったのだと、誰にでも判る。だからこそ、彼が近くに来ても先に話しかける気にはなれなかった。
「ソルティー、力を貸して欲しい」
 慧獅はそう言って、ソルティーの肩に手を触れようとした。それを力一杯払い落としたのは恒河沙だった。
「駄目だ! ソルティーはまだ体治ってないんだ!」
 善からぬ事を企んでいると決めつけた強い視線に、慧獅は躊躇いを見せた。
――ああ、こいつは……。
 最初に見た時の恒河沙は、普通の少年だった。けれど一度オロマティスに体を奪われ、戻ってきた彼は違うモノになっている。
 オロマティスの事を声達は完全な者だと言った。ならばそれは今の恒河沙にも等しい言葉となるのだろう。それだけの本質的な力を慧獅は感じた。
「話を、するだけだ」
 恐らくまだ恒河沙は、力の使い方を知らない。知っていても十分ではない。知られて抵抗を受ける前に片を付けなければならない。慧獅は固くなる声を落ち着かせながら言ったが、恒河沙は首を横に振った。
 そんな恒河沙の肩に乗せられたのは、ソルティーの手だった。
「恒河沙……良いから」
「でもこいつは!」
「この慧獅達が私を闇から連れ出してくれたんだ。それは事実だ」
「でもぉ……」
「慧獅、少しだけ時間をくれないか。力も貸して欲しい」
「……判った」
 ソルティーは慧獅に肩を触られた状態でハーパーに降ろすように頼み、自分の脚でしっかりと床に立つ。
 慧獅はソルティーから一端手を離すと、近くに落ちていた先の尖った瓦礫の破片を拾い上げ、躊躇いもなく自分の右手に振り下ろす。滴り落ちる血もそのままに、驚く須庚達の目は気にせず、ソルティーの髪を掻き揚げて首に押し当てた。
「乾くまでだ」
「助かる」
 血を触媒にした強引な接続だった。これで少し慧獅はソルティーから離れられる。勿論付け焼き刃の方法でしかない。
「ソルティ……」
 心配だけを浮かべる恒河沙に、ソルティーは微笑む。先刻浮かべたものよりも、もっと感情溢れる優しい笑みだ。
「おいで」
 軽く両手を広げると、吸い寄せられるように恒河沙の体が飛び込んでくる。ギュッと抱き締めると、感じないはずの温もりが浮かんできた。
「大好きだよ恒河沙。他の誰よりも、一番お前が好きだ。本当だ、心の底からお前だけを愛してる」
「ソルティー……。俺も好き、大好き」
「ありがとう、嬉しいよ。だから恒河沙、一つ約束をして欲しい」
「何……?」
「うん、それは印を貰ってから言う。これからの二人の事で一番大切な約束だから、絶対に護って欲しいんだ」
 決して「うん」とは言いづらい状況だ。ただ、「これからの二人」と語られた言葉には、不思議なほど自信が込められていて、恒河沙はそれを叶えたい一心で頷いた。
 体を屈めたソルティーの顔を両手で包み、約束の口付けは少し長くした。本当に叶えたかったのだ。
「ソルティ……」
「ありがとう」
 口付けを終えてから見たソルティーの顔は、全てを憂いから解き放たれたように、幸せに包まれた微笑みを浮かべていた。
 もっと、ずっと、こんな彼と一緒に居たい。居なくちゃいけないんだと思った矢先、恒河沙は強く胸を押された。
「恒河沙を離すな! 何があっても、絶対にだっ!! 今度私の命を破れば、お前はもう私の家臣では無いっ!!」
 突然強い言葉が放たれる。それは恒河沙を受け止めたハーパーへの、最期の命令だった。
「ある…、御意っ!!」
「ソルティーッ!?」
 ハーパーは全身の力で恒河沙を押さえ付ける。
 どうしてまた、と疑問を浮かべる恒河沙の前で、ソルティーは須臾へと顔を向けてしまう。
「これから出来る限り完全な防御結界を張れ! もしもの時がある、何時でも跳べる準備もだ!」
「わ、判った」
 拒絶を許さない鬼気迫る様子に、須庚も受け入れるしかなかった。
 数え切れない言葉は胸の中にある。恒河沙だけでなく、須庚にもソルティーを大切な親友として思う気持ちがあった。なのにそれを言えない。言わせて貰えないと苦悶する彼に、ソルティーはフッと笑った。
「それと、今までありがとう。須庚に会えて本当に良かった。感謝している」
 須庚の嫌いな優男ぶりを遺憾なく見せ付ける笑みも、今はもう悲しいだけだ。
 それを最後にソルティーは恒河沙達に背を向けた。向かうのは距離を置いて待っている慧獅の元。
「ちょっと待ってよ! どうして俺、またっ!!」
 嫌な予感だけがする。このまま行かせては駄目だと、体中が叫びを上げた。
 自分には振り向かずに去っていくソルティーが、背中を向けたままのやっと言ってくれた言葉は、絶対に聞きたくなかった。
「恒河沙、約束だ。……私が死んでも泣かないでくれ」
「死んでもって……」
 心のどこかで「やっぱり」と浮かぶ。だからといって受け入れられるはずもない。全力で退けなければならない言葉だ。
「嫌だ! ハーパー放せよ! やだっ、ソルティーーーーッ!!」
「済まぬっ! 済まぬ恒河沙っ!!」
 ハーパーは全身で暴れる恒河沙を抱き締めて引き止めた。腕を放せば恒河沙はソルティーを止めるだろう。そうして欲しいと願う心があるのも嘘ではない。だが、死に場所を決めた王の決意に、異を唱える事は臣下には許されなかった。
「ソルティー!! ソルティーーーーーーーッ!!!」
 約束出来る筈がない。自分の顔も見ずに、ただ一方的に押し付けられた約束なんて、叶えてあげたくもない。
「行っちゃやだぁーーーーーっ!!」
 恒河沙が幾らそう言っても、ソルティーは一度も振り返らずに慧獅の前に辿り着いてしまう。
「須庚!! ハーパー!! なんでだよっ!!!」