刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
「――まあ其処で無理をしなければ、なんとかしてやるから。それまで待ってろ!」
慧獅はきつく忠告を残し、素早く瑞姫達の方へと向かった。
“慧獅良いのか!?”
「しょうがないだろ。……お前だって、判ってる筈だ」
“………そうだな”
慧獅は唇を噛み締めながら、瑞姫への言い訳を頭に浮かべた。とても納得して貰えそうな言葉は無かった。
「ソルティ……大丈夫?」
「ああ」
恒河沙が頬に添える手に、ソルティーは笑みを浮かべる。以前のように力を奪われるような感覚はなく、彼が存在的な意味合いで完全になった事を示していた。
「なあ、俺の事知ってたの?」
「知っていた。ごめん、知らない方が良いと、勝手に思った」
「ううん。そんなのどうでもいい。そんな事より、……俺なんかでいいの? 俺、なんか違うだ……。なんか変なんだ……。さっきからずっとな……俺……」
自分の中の何かが変わってしまったような気がする。ただそれをどう言えばいいのか判らずに、言葉が彷徨ってしまう。
触れている場所から恒河沙の戸惑いが伝わり、ソルティーは眼を瞑った。
「恒河沙は恒河沙だよ。今もちゃんと、私が大好きなお前だ。変わらずにいてくれて、本当に嬉しいよ」
どんな策を企てようとも、恒河沙自身がオロマティスを退けるしか、彼が彼として成る手段はなかった。だがそれは結果論にしかすぎない。
ソルティーは恒河沙と引き替えに瑞姫達を呼び出すことを選び、オロマティスの手助けをしたのだ。
「私は臆病で卑怯者だから、お前まで道連れにしようとした。正しかったとは思わないが、謝らないよ。私にはそれを行う役割があったんだ。……だから恒河沙、お前はもう自由だよ。解っているだろ……」
解っているだろうと紡いだソルティーの唇が、無理をして笑みを作った。
言葉の意味を恒河沙が理解できていた事は、彼の指先が震えた事に現れていた。
須庚は恒河沙の後ろで会話を止めさせようと思っていたが、二人の醸し出す空気がそれを拒んでいた。
城に入ってから一日の四部の一も経過していない。それなのに次から次に信じられない事が起きて、今も尚それが続いている。ソルティーの言葉は気掛かりで、恒河沙が何を言うかも気に掛かる。これまでなら気軽に口を挟めたのに、狼狽えたくなるほど二人の関係が違っているように感じられた。
ハーパーを見れば、自分の主が終わりを迎えようとしているのを、心痛な気持ちで耐えようとしている様だった。竜族に涙がある話は聞いた事がないが、もしもあるなら閉ざした瞼の下に、滂沱の涙が流れていただろう。そんな彼に自分の代わりになって話をしろとは言えなかった。
足下から伝わる振動は大きくなっていき、残った壁はさっきから崩れるのを止められなくなっている。
このまま恒河沙は沈黙を解答にするのかと考えた時、震えた声が聞こえた。
「俺は……ソルティーが好き……。ソルティーがいてくれたから……俺は俺でいられたんだ……。俺はソルティーのだよ、ずっと……ずうっと……ソルティーといっしょに生きてくんだ!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら恒河沙はソルティーの頭を抱き締めた。
自由なんて要らない。――と、ソルティーが生きていてくれるだけで良いんだと。それが恒河沙の答えだった。
聞こえる言葉でしか想像を働かせられない須庚は胸を撫で下ろすものの、長く浸ってはいられなかった。
ゴォウン――と鈍く大きな音が響き渡り、直後に床が大きく揺れた。
咄嗟に瑞姫達を確認すれば、肉塊の後ろ部分が派手に弾けている。瑞姫達の攻撃が効いたのではない。大きく育った肉塊に押された後ろの壁が崩れ、石の破片が肉塊に降り注いだのだ。その衝撃に肉塊が無数の触手を繰り出し、更に壁を破壊していたのだ。
「ちょっと……やばくない?」
壁が大きく崩れて肉塊に向かって倒れていく。
巨大な壁を受け止めた肉塊は、僅かに潰れ、そして大きく膨らんだ。自分に乗っている壁を下から串刺しにするように、肉で出来た針山を作り出す。針はそのまま四方八方に勢いよく伸びていき、手当たり次第に突き刺さっていった。
「やばい!」
「逃げろっ!!」
もうそれが誰の放った声か解らない。
上空に伸びた肉の針が、標的を求めて噴水の水のように降り注いでくる。ハーパーはソルティーを抱きかかえたまま翼を広げ床を蹴る。須庚は恒河沙を掴んで精霊を呼んだ。
二人の足が床から離れると同時に、無数の肉塊が床に突き刺さった。あまりにもその数は多く、大理石の床でも耐えきれなかったのだろう。不快な音を響かせながら、縦横無尽に亀裂が走っていった。
ガラガラともゴウゴウともつかない破砕音が鳴り響き、肉塊の重量に耐えきれなくなった床が崩落していく。肉塊の様子は、立ち上る土煙に掻き消されて見えなくなった。
落ちてきた三階と肉塊の重量に、二階の床と柱も耐えられなかったようだ。更に猛々しい轟音が鳴り続け、死者で造られた彫像をも飲み込み崩れていった。
「なんてこった……」
須庚は無意識に息を飲み、恒河沙に回した腕に力を入れた。
眼下には土煙に飲み込まれた城が、僅かに一部の塔の先を覗かせるだけとなっていた。瓦礫が崩れる音はなおも続いている。それが肉塊によるものなのか、それとも自然な崩壊の音なのかも解らない。
「さっきのはどうなったんだ」
肉塊はまだ見えない。しかし須庚よりも下に浮いている三人は、まだ緊張の糸を断ち切ってはいない様子だ。
「須庚……あっち」
この状況下でも恒河沙に肉塊への関心は皆無らしい。指し示したのは別方向に飛んだハーパーであり、無論目的はソルティーである。
「まぁやる事はないけどさ……」
「あっち行こ」
「……はいはい」
こみ上げてくる溜息を我慢して須庚はハーパーに向かった。
その視界の端に、煙の中から姿を現そうとしている肉塊が映ったが、そのあまりの大きさに気付かなかった事にした。
「晃司、此奴を封印出来ない?」
肉塊と呼ぶにはあまりにも巨大になった物体を見下ろしながら、瑞姫は思い出したように問うた。
「それが、慧獅が戻ってから何度か試したんだ。でも全然効果がない」
「だったらこの結界だけでもどうにかならないのか? 三人が戻ってこられないのは、結界の所為かも知れない」
「それもちょっと……」
“干渉は行ったが反応しない。まだこの結界はシルヴァステルの作用によって維持されている”
“要するに、あの父であった物を駆逐しない事には、結界は解けぬという事だ”
「径は開いてるんでしょ?! そこを通ったら」
“通れない力が作用していると考えるのが普通ね。少なくとも私達に戻ってくる意識があればだけど”
「役立たず! 戻ってきたらお仕置きなんだから!」
「兎に角、俺達だけでこいつをどうにかしないとならないって事だな」
巨体になった所為か、肉塊の動きは少し緩慢になっているように見えた。
しかし瓦礫が肉塊に触れれば攻撃を仕掛けてくるのは変わりなく、無尽蔵に増大していくのも変化はない。
四方にある塔まで先の崩落で崩れなかったものの、このまま肉塊が成長すれば、時間を掛けずに塔が押し倒され、その衝撃によって肉塊は更に大きくなるだろう。
「止める方法は無いのか?」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい