刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
須臾に聞かされていた父親の姿に笑みは無い。恒河沙は少し戸惑ったが、触れる大きな手は、思いっきり優しかった。
この世界に実体を持たないオロマティスによって、仮の体が造られ始めたのは何百年と昔のことだ。長い年月を労して造られていった体は、まさしくオロマティスの器でしかなかった。
ただの器に自我が宿ったのは、今となっても偶然というしかない。しかし全くオロマティスの影響を受けない、完璧な個を有した状態ではなく、偶然の産物である自我とオロマティスの力が衝突しあって、阿河沙を正常に動作させなかった。だから彼は、感情を素直な言葉に出来なかった。今はやっと正常になったのだ。
「親父の形見の剣?」
「そうだ。ずっとあの中にいた」
「そうなんだ」
気にした事は無かったつもりだが、捨てられたのではないと思うと胸が軽くなった。何度も助けて貰った大剣の力が、父の気持ちだと思うと嬉しかった。
大きな手はソルティーと同じくらいで、心地よくて目を閉じると、阿河沙の声はオレアディスに語りかけた。
「お前にも会いたかった。この日を待っていた。苦労をさせてしまったが…」
「あなた……」
一滴の涙を頬に流したオレアディスは、嬉しそうに微笑んだ顔を横に振った。
願っても出来なかった親子三人の現実は、ただただ嬉しい。
――なんかすっごくいい気持ちだぞ。
どことなくソルティーと居る時と同じ心地よさだ。
今まで周りの親子を、羨ましく感じた事は無い。知っていて、失っていれば判ったかも知れないが、始めから知らないものに羨望の眼差しは向けられなかった。
恒河沙がなんとなく、親ってこんな感じだと思い始めた時、オレアディスが嫌な言葉を言った。
「もう、会えないのね」
それは阿河沙に向けての言葉だった。
「ああ。済まない」
恒河沙が驚いて二人を見上げると、凄く優しい笑みを見せられた。
「どうしたの……?」
「貴方は気にしなくて良いのよ。ただ、もう会えなくなるけど……」
「……会えない? どうして? やだ!」
折角判った心地よさが無くなるのが嫌で、恒河沙はオレアディスにしがみついた。その恒河沙の髪にまた、阿河沙の優しい手が触れた。
「私達は死んでしまった者だから、これは仕方がないんだ。こうして会えただけでも奇跡だからね」
「でもやだぁ〜〜」
「恒河沙……。駄目よ、貴方は戻らないといけないの。此処に居ては、貴方が失われてしまうわ」
オレアディスはしがみついて顔をすり寄せる恒河沙に、悲しい顔を見せながら、彼の頬に両手で自分達に向かせる。
真剣な眼差しは胸が痛むほどで、だからこそ二人の言葉が嘘ではないのだと感じてしまう。
「貴方が居なくなっては駄目なの」
「居なくなるって……? 俺、いるよ?」
「今の貴方の体はオロマティスに使われているの。だから貴方はこんな所に来ているのよ」
「誰それ……」
「もう一人の私だ。本当なら、お前にこんな役目を負わせたくなかったが、私はイェツリと出逢ってしまった」
まるでそれが罪だと言う様に、阿河沙の表情は曇りを帯びた。
出逢っていなければ、自分はオロマティスの思惑通りシルヴァステルの住処への鍵が出現するまで、世界中を放浪するだけだっただろう。しかしオレアディス、いや人間のイェツリに出逢った。惹かれたのは彼女が秘める神としての力だったのかも知れないが、人として彼女と愛し合った結果として恒河沙が産まれた。
無論阿河沙がシルヴァステルの元へ行かなければ、仮体は阿河沙のままだった。阿河沙がオロマティスの思惑を知っていれば、恐らく行かなかっただろう。
人としての生活を重ねている内に、自分が何者であるかは結局思い出さなかった。だが常に自分には行かなければならない場所と、其処での使命があると感じていた。
何処かは解らない。使命も解らない。にもかかわらず時を経るごとに感覚は大きくなり、護るべき者が居る事で不安へとなっていった。何時かこの大きな不安が、妻や産まれてくる子供に厄となって降り掛かるのではないかと考えるようになった。
そしてある日ふと、体を突き抜ける何かを感じた。大きな衝撃だった。遙か遠い地で創造主の子供等が、一つの戦いをしていた余波だとは阿河沙も気付けなかったが、その力に突き動かされるように阿河沙は其処へ行く決心をした。
総てを知ったのは、結界へ入ろうとした時だった。鍵もなく未完成だった阿河沙は、結界の中へは完全には入れず、半ば結界と風壁の間に彷徨う形となって命を落としてしまう。
その時初めて自分に持たされた力を知り、家に残していた大剣に宿った。そうでもしなければ消えてしまいそうになったから。まさか失った肉体をシルヴァステルに使われる事になろうとは、阿河沙自身も知らなかった事だ。
「私は必死だった。何としてもオロマティスから恒河沙を護らなければならないと、それだけしか私は……」
「判っている。総てお前のお陰だ」
イェツリとしての死と共に精霊神としての力を取り戻した時に、彼女は阿河沙の真実を知った。
オロマティスの力は強大で、人や精霊では決して器にはなれない。自らの器を作る為にオロマティスは膨大な時間と力を注ぎ込み、同じ物を用意する事はほぼ不可能だと考えられた。
人としての時間を譲ったとしても、恒河沙は水の精霊神とオロマティスの半身とも言える仮体との子だ。予備の器にするには十分な資質だろう。
恒河沙の事が知られたら、確実に恒河沙へとオロマティスの矛先が向く。
何れ確実に訪れる時を前に我が子に出来る事は、恒河沙の力を自分の力で抑える事だった。
ただ、オレアディスの力よりもオロマティスの力が遙かに上回り、完全に抑えきる事は出来い。だから隙を捜した。
阿河沙がそうであったように、オロマティスはずっと仮体に意識を向けてはいない。何時現れるかも判らない鍵を、彼は待つだけ。彼が欲しかったのは、鍵を使って現れなければ出現できない者に出逢う瞬間の体だけ。それさえ手に入れられれば、その間の事は総てミルナリスに任せていた。
鍵がこの世界に現れた瞬間、オロマティスの意識は完全にそちらに向かった。たった一瞬だったが、其処にオレアディスは付け入った。
「じゃあ……俺が記憶なくしたのって……」
同じ日、同じ時に、恒河沙はそれまでの記憶を失い、別の場所ではソルティーがこの世界に戻った。
「ごめんなさい。でもそうしなければ、貴方を取り戻す事が出来なくなった筈なの」
「いや、お前が記憶を無くしたのは私の所為だ。私が無理矢理お前と力を繋がなければ、それ位の負荷は、お前は耐えられた筈だ」
「力を繋ぐ?」
阿河沙は恒河沙の右の頬に指を添わせる。
「お前の力を分けて貰った。剣に宿るだけでは、どうしても無理があったんだ。だから、あの瞬間は私にとっても好奇だった。ただ、私がイェツリの意思を汲み取っていれば、あんな無茶はしなかった。私の責任だ」
「あの時既に私はイェツリではなくなって、恒河沙の近くにいられなかった。貴方が宿る剣の事にも気が付かなかった。……でも、恒河沙には可哀想な事をしてしまったわ。ごめんなさい、幾らそう言っても許しては貰えないけれど、ごめんなさい」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい