刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
ぶつけられる疑問にソルティーは黙っていた。何も言わずに変わっていく恒河沙の気配にだけ、心の痛みを感じていた。
見えなくても判るのは、完全に恒河沙の気配が失われてしまった事。自分が瑞姫達を呼び出さなければ、こうならなかったのだから、もう手遅れだと知るのみだ。
恒河沙は鬱陶しい眼帯を掴み、上に持ち上げる様に外した。
「!? ――どうして……」
眼帯の下から現れたのは開いた右目。
恒河沙が記憶を失って、目覚めた時には失ったいたそれが、また彼の元に戻っていた。
大剣と契約したのは恒河沙自身ではない。須臾が気付いた時には、既に右の瞼が呪紋によって閉ざされていた。理由の判らない現象に当時は戸惑ったが、それよりも恒河沙の記憶の方が問題だった。
その右目が戻り、両目で周りを見渡す恒河沙の顔は、記憶を失う前の物でも、先刻までの物でもない。
中身が違うだけで、これ程顔付きが変わるものなのか。解き放たれた事を喜ぶ顔は、酷く冷めた感じを与える。
「体とは……こんなにも窮屈な物なのか……」
恒河沙は呟き、顔を決死の戦いをする三人に向けた。彼の目には、三人の人間の後ろに浮かぶ六人の姿も映っていた。
同じ顔が二つずつ並び、どれもが驚愕の眼差しで見てくる。知っている顔はない。けれどよく識っている者達だ。
「恒河沙……」
歩き出した恒河沙に須臾の声は届かない。
恒河沙は視線をシルヴァステルへ変え、ゆっくりと近付いていく。
「もう何でばしっと出来ないのよっ!! ――え?ちょちょちょ、ちょっと! 君! 危ないじゃない!」
恒河沙は瑞姫の体を片手で押しのけ、彼女達の前に出る。其処には力の鬩ぎ合いがあるというのに、何の影響も無いように見えた。
“オロマティス! 何をするつもりなの!?”
「父を送る」
“送るって……”
「ちょーーーーーっと、あんた達説明しなさいよ! この子どうしちゃったのよぉ」
“オロマティスだ”
“我等の末弟だ”
「まってい……って、弟?」
「居たのか弟? 聞いた事あるか慧獅?」
「いや、それは知らない」
“我等も会ったのは初めてだ。いや、存在するかどうかも”
「何よ、あんた達の兄弟の基準って、そんないい加減なもんなの?」
“仕方ないではないか。我等はこの地に産み落とされた瞬間、父によって存在を二分され、そして消されたのだ”
“オロマティスは、その時産まれては居なかった。母の胎内に居た”
“御母様と共に、御父様に消された筈だったのよ”
「えぐい父親……」
淡々と語れる神経を疑いたくなると、瑞姫はあからさまに顔を歪めた。
「父よ、母が待っている」
後ろの会話には参加せず、恒河沙の体を持つオロマティスは、シルヴァステルの直ぐ前まで来ていた。
「お前も私を滅ぼすつもりなのか」
新たな敵の出現への懸念だろうか、僅かにシルヴァステルの表情に変化が見られた。
「そうよ! やちゃいなさい!」
瑞姫は期待を込めたが、それは叶わなかった。戦う気配をオロマティスは微塵も見せず、何も持たない左手をシルヴァステルへと差し出した。
「母は、今も生きている」
「ーーーーッ!!」
その瞬間、初めてシルヴァステルは感情も顕わに驚愕した。
オロマティスが上に向けた掌に、ぽうっと霞んだ光が宿る。吐息でも吹き飛んでしまいそうなほどの儚い光は、しかし見るだけで胸を温めてくれるほどに優しい光を放っていた。
“御母様っ!?”
“母上っ!”
瑞姫達の体は引き寄せられるかの様に、意志に反して前へと進む。
「戯れ言を……。アタラントはあの時」
「貴方は忘れている。母に貴方が何を宿らせたのか」
“瑞姫お願い。もっと御母様の側に”
「でもっ……」
懇願する背後からの声に瑞姫はどうする事も出来なかった。こんな事は考えてもいなかった事で、これからどうなるかも想像がつかない。せめて恒河沙でありオロマティスが何を目的にしているのかさえ判れば良いのだが、今動けばシルヴァステルに強烈な一発を食らう恐れもあった。
それと同じ動揺が慧獅と晃司にもあった。
「貴方は母に言葉を与えた筈だ。未来永劫、この世界で貴方の妻である事を」
その言葉によってもシルヴァステルは表情を変えた。
忘れていた何かをたった今思い出したかのように、悲しみに強張ったのだ。
「そしてあの日、息絶えた母を貴方は消した。母は確かに肉体の死を迎えたが、存在その物は貴方の言葉のままに在り続けた。母は今、存在と事象の狭間で苦しんでいる。貴方の次の言葉を待っている」
オロマティスの掌の上の光は、シルヴァステルが手を伸ばした矢先、霧となって消えた。
元から其処にあったわけではなく、オロマティスが今や風壁の霧となった母の姿を映していただけだったようだ。
「アタラントはまだ」
見せられたものを、聞かされた言葉を疑おうと思えば疑えた。しかしシルヴァステルは確信に至る何かを感じたのだろう。
光に触れられずに終わった手を、無念を重ねてしまえるほど握り締めるシルヴァステルの姿は、感情を持った人にしか見えない。
「貴方に体を霧へと変えられ、それでもこの世界に縛られた母は、貴方の怒りと悲しみから世界を護る為に、風壁となって貴方を待っている」
「じゃあ何? あの風壁って、あんた達のお母さんだったの?」
「どうやっても消えない筈だ」
“そんな……”
“どうして我等は気付かなかった”
疑問と驚き、そして嘆きが次々に湧き出しても、彼等への答えを持つ者は、ただ一人シルヴァステルだけを見ていた。
「母には既に自我という物が少ない。自分の身を抑えられない時も在る。今までは私がどうにか抑え込んではいたが、それも時間の問題。――父よ、早く母を助けてあげて欲しい」
「アタラントッ!」
その言葉を最後に、阿河沙の体は力を失い床に倒れた。
“御父様っ!”
“御母様”
“我等もお連れ下さい!”
瑞姫達の耳に声が響き、同時に周囲にあった圧倒的な威圧感が消え去ってしまう。
「うっそーーーーーーーーー?!? どうして行けるのよぉぉ???」
瑞姫が叫んだのは無理はない。シルヴァステルは阿河沙の体を捨て去り、姿を持たない意志の塊となって結界から出てしまったのだ。
入る事も出る事も出来ない筈の結界だった。だからこそ大きな犠牲を払っても、此処に至る径を作ったにもかかわらず、一瞬にも満たない時間で抜けられてしまったのでは、瑞姫が頭を抱えたのも無理はない。
一方慧獅はシルヴァステルの行動に驚いていたが、それ以上の驚きを自分の両手を見つめながら感じていた。晃司は二人ほどではないが、浮かない顔で周りをきょろきょろと見回していた。
「シルヴァステルだけじゃないな」
「へ?」
「感情が消えてる」
晃司の台詞に瑞姫は驚いた。
「あああ本当じゃない! シンッ、どういう事よ!?」
“感情だけだからかしら”
「ふざけないで」
“やっと我等を縛っていた、父の言葉が消されたのだ”
“父はこの世界その物。所詮私達に、父を封じる事は出来なかったと言う事だ”
残った理性の者達は、思い思いに語っていくが、聞かされた方はげんなりする内容である。彼等は、シルヴァステルは封じられていたのではなく、自ら閉じ籠もっていたと言っているのだ。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい