刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
ガラガラと音を響かせ崩れ落ちる石の扉。視線を遮る物が無くなって初めて見えた王の間は、がらんとした静けさに包まれていた。
何事もなかった様な、誰も居ない様な雰囲気を醸し出す、広々とした王の間を見渡す事は出来なかった。理由は一つ。其処に“色”が在ったからだ。
この灰色の石の世界では似つかわしくない、赤銅に近い陽に焼けた肌。闇に見まごう程の、深い紺の髪。体を覆うのは黒い皮のコートは、あまりにもこの空間に相応しくない。向かって左の空席に立て掛けられた、鋭い剣先を持つ大剣は、嘗て鍛冶の町カミオラのケトカに聞いた、阿河沙の剣の特徴を備えていた。
王座に肘をついて、物憂げな顔を見せ、その顔は端整な面立ちだった。
意気込んで扉を破ったが、須臾も恒河沙も前には進めなかった。
自分達を見ているのか判らない、その男の瞳の色が、あまりにもはっきり見えてしまったのだ。
蒼の中に赤が浮かぶ、二つと無いと思わせる瞳が、其処にあった。
「……阿河沙さん」
須臾が呟き、恒河沙は二人を見比べる。
ハーパーだけ、男の足下に視線を彷徨わせていた。
――何と惨い……。
男が脚を置いている石は、半分ずつに繋ぎ合わされた、男と女の顔。
堅く結んだ唇と、何かを決意した眼差しで、どちらも真っ直ぐ前を見ていた。
ユイディウスとレビオナ。この部屋で最後を迎えた二人の体は、何処にも無い。頭部だけが繋ぎ合わされて踏みつけられていた。
「おや……じ……?」
「阿河沙さんっ、どうして此処に居るんだよっ! なんであんたがこんな所に居るんだ!」
信じたくなかった。
心の何処かで、間違いであって欲しいと願っていた。勿論、リーリアンの滅亡は五百年も昔に起こっているのだ、彼がそれに関与しているとは思えなかったのもある。しかし彼は此処に居た。
信じ難かったのは、彼の姿が十九年前から全く変わっていなかった事だ。
こんな表情をする男ではなかったが、確かに須臾が記憶していた通りの姿だった。
「阿河沙さんっ! なんとか言ってよっ!!」
思わず飛び出しそうになる須臾の腕をソルティーが掴んだ。
「止めないでよっ!」
「違う。あれは恒河沙の父親じゃない」
「何言ってんのさ!? あの人は阿河沙さんだよっ!」
須臾が指差す男は、全く動きを止めたままだ。
こんな常軌を逸した世界を作る様な男だと思っていなかっただけに、その訳を聞きたいと願う須臾の気持ちを、ソルティーはくぐもった言葉で否定する。
「今は、そうじゃないんだ……。あれは、阿河沙の体を奪ったシルヴァステル。中身は私の敵だ」
ソルティーの言葉に恒河沙と同じ色を持つ、阿河沙の瞳が微かに動いた。その視線の先には、自分の名を告げた者しか居ない。
ソルティーには阿河沙の姿が見えない分、彼の中に宿る者の姿がはっきりと見える。――いや、それは眩く輝いているだけで、人の形も気配も感じさせなかった。ただ在る。それだけの存在を、一体どう表す事が出来るだろう。
「それじゃあ……阿河沙さんは?」
「もう……」
シルヴァステルを真っ直ぐ見据えながら、ソルティーは妥当な言葉を吐き出す。
冥神の仮体でありながら自我を持った筈の阿河沙が、何を考えて此処へ赴いたのかは知る由もない。
仮体として目覚めていたのなら、此処へ来る理由も判る。しかしミルナリスはそうは言わなかった。仮体の監視者である彼女が、その時を見逃す筈がない。
推測するには決定的な材料が足りず、既に死んでしまったのでは、どうする事も出来ない。ただ、其処に存在する真実だけを口にするだけだ。
「そんな…阿河沙さんが……」
――あんなに強かった人が……。オレアディスに何て言えば良いんだよ!
突然突き付けられた死に、須臾の気落ちは直ぐには治らない。
しかし一方では、
「おっしゃあ! これで何でも来いだっ!!」
大っ嫌いな瞳が似てるだけなら、思いっきり他人と言いきれる。しかもソルティーの敵。恒河沙は、俄然張り切って剣を握り締めた。
その恒河沙の様子にソルティーは胸を撫で下ろしたが、一瞬だった。
――シルヴァステルがきっかけだと思っていたが、違ったのか。だったら何が恒河沙を変えるきっかけになるんだ。……まさか。
「やいっ! ソルティーの敵っ! これから俺が、思いっきりぶっ倒してやるからなっ!!」
身動きもしない男に向かって、元気一杯に大剣を突き出す恒河沙をも、ソルティーは腕を掴んで引き戻し、ハーパーに向けて放った。
「ソルティーッ!?」
「暫く其処に居ろ。お前の出番はそれからだ! ハーパー、私が良いと言うまで、二人を抑えておけっ! 必ずだっ!!」
「ちょっちょっとっ!」
ソルティーは怒鳴りながら須臾の体もハーパーへ預け、一人で王の間へと足を踏み入れた。
「ハーパーッ放せよっ! 馬鹿間抜け頑固じじいーーーーーーーーっ!!」
「済まぬっ!」
ハーパーもソルティーが何をするつもりかは判っていないが、恒河沙と須臾に何を言われても腕の力は緩まない。ソルティーが見せた追い詰められた表情と、言葉の端はしに感じた緊張感に、逆らう事は出来なかった。
ソルティーは一人で阿河沙、いやシルヴァステルの前に立った。手は、ローダーへと向かっていない。
――迂闊だった。シルヴァステルが、冥神と仮体を繋ぐきっかけではなかった。恐らくきっかけは、彼女達の出現だ。それでは遅い!
殆どと言っても良い程、人の口から語られる事のない神。冥神オロマティス。その神が、どんな力を秘めているかも、はっきりとしない。ただ存在するだけの神と、それを恐れる神々の縮図が、冥神を冥神たらしめている。
人の世に関わりを示さなかった神が、今は関わろうとしている。
ソルティーの第一前提は、シルヴァステルを倒す事ではなく、恒河沙を冥神に引き渡さない事だ。冥神が何を考えているかも判らない今、闇雲に「はいそうですか」と言える筈がない。
阿河沙の代わりを恒河沙がしているだけならば、阿河沙の出現時期とソルティーとは時間が合わない。勿論、瑞姫達、いや、彼女達三人を依代する者達が、人の世の神である冥神の動きを知る筈もない。瑞姫達にとって恒河沙は、全くの不確定要素だった筈だ。だからソルティーの側からすれば、恒河沙が冥神へと移り変わるきっかけが、瑞姫達であってはならないのだ。
しかし、冥神がこの事を見通していたのなら話は違う。全く逆の事になるのだ。
ミルナリスの話では、冥神一人でもシルヴァステルをどうにか出来る口振りだった。なのにシルヴァステルをきっかけにはしなかった。
冥神には、瑞姫達を先に出現させなければならない理由が在る。
そう考えるのが普通だ。
「ソルティーッ!!」
ハーパーによって完全に動きを封じられた恒河沙が、自由にならない体に力を入れながら叫ぶ。
――私一人に何が出来る。しかし冥神よりも先に三人を呼べば、彼女達の手で恒河沙を戻せなくなる。……いや、そうじゃない。もう確率の問題だ。
避けたかったのは恒河沙が変わってしまう事。他はどうでも良い。それがどれだけ醜い感情であってもだ。
「シルヴァステル……やっと貴方に会えた」
ソルティーが見ているのは、シルヴァステルだけ。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい