刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
「でも、近頃していませんし、そろそろ私もか――」
「ミルっ!」
咄嗟にしゃがんで彼女の口を手で塞ぎはしたものの、それがますます恒河沙の疑念を増大させた。
――自分で蒔いた種とは言え、これでは身が持たない。
これがミルナリスの悪戯なのは判っている。
恒河沙を選んだ時点で彼女にはそう言った。だから彼女の心を利用した手前、どうしてもその罪を受けなければならないと判っている。
しかし彼女の好きな様にさせる事は、そのまま恒河沙への悪影響にしかならない。
現時点のソルティーに出来る事は、今の様に彼女が口走る淫らな言葉を寸前で止める位だった。
「お願いだから、それ以上は言わないでくれ」
そう小声でミルナリスに囁き彼女は嬉しそうに瞳を笑みに変え、そしてソルティーの掌を舐めた。
「っ…」
ミルナリスは思わず離したソルティーの手を握り、意地悪そうな笑みを造った唇をソルティーのこめかみに触れさせた。
「私、矢張り此処は性に合いませんわ。お向かいの雑貨屋に居ますから、お買い物がお済みになられたら、迎えに来ていただけません?」
そう言って足早に店を出ていく彼女の後ろ姿を見る事無く、ソルティーは俯いて溜息を吐く。
「むかつく婆」
恒河沙は一言吐き捨てると、しゃがんだままのソルティーの前にしゃがみ、袖でミルナリスの唇が触れた場所を力一杯擦る。それから自分もとばかりに、同じ様に唇を触れさせて満足げに微笑んだ。
「これで良し!」
「………」
「何が良いんだ」と言いたいが、失った言葉を取り戻すにはまだ時間が掛かりそうで、取り敢えず恒河沙に力無い笑みを見せるだけにした。
「お客さぁん、買う気あんのぉ?」
カウンター越しに自分達を疑って見つめる店主に、恒河沙は力一杯元気に立ち上がると、手にしていた短剣を突きだした。
「おっちゃん、これ頂戴。それと、これと、これと、あそこのと、こっちのも。あ、そんで、この鞘の此処っ、邪魔だから外して」
「……うーむ、坊主、結構出来るくちだな?」
恒河沙が遠慮無しに指し示した短剣は、見掛けは普通の短剣だが、刃の輝きや柄の精巧さから総てが一流の品だった。
「へへ」
武器商に認められたら一流、鍛冶屋を唸らせれば超一流と教えられた恒河沙は、店主の言葉に嬉しそうに笑みを漏らした。
この店で六本の短剣を購入した後も数件の武具関係の店を廻り、一件の腕に良い鍛冶屋を紹介して貰った。その鍛冶屋に向かう前にミルナリスを迎えに行き、一端宿屋に戻ったのは須臾を連れ出す為だ。
恒河沙は嫌がったが、ソルティーは阿河沙と言う男の事をもう少し詳しく知りたかった。
須臾の話だけでは要領を得ることが出来ず、矢張り阿河沙と言う人物が自分の追っている敵とは到底思えない。何かの繋がりがあるのか、それとも何か別の力が動いているのか。どちらにしても、軽はずみな選択は後々の為にはならず、“偶然”にも阿河沙に通ずるこの街に来たのだから、最低限の情報集めは義務のようにソルティーは感じていた。
出来る事なら、恒河沙の父親とは争いたくはない。それがどんな事情であったとしてもだ。
しかし宿では何とか須臾の落ち着いた顔を確認は出来たが、宿の従業員に阿河沙に関しての情報を求めた時、彼の話した事に須臾はまた鬱の世界に駆け出しそうになった。
「ああ、お客さんもアガシャ様詣でですか? ――ええっと、あ、はい、これがその地図です。この宿から北へ行った所にある、ユメイヤ屋敷に飾ってある、アガシャ様の倒した大熊の皮が出発地点ですから、後は地図の順番通りに進むだけで、貴方もアガシャ様を体験出来ます!」
どこをどう聞いても観光案内にしか聞こえない従業員の話は、終わりまで口を挟めない程流暢で、慣れを感じさせた。
余程この街には、阿河沙の足跡を訪ねる者が多いのだろうかと、街の様子を思い出してみれば、確かに血気盛んな若者達が紙を片手に歩いていたようにも思う。
用意周到に手渡された地図には、街中至る所に番号が描かれ、右上には矢張り『これで君もアガシャの専門家!!』と、巫山戯ているのか真面目なのか判らない謳い文句が、大きな文字で記されていた。
「いや、こういうのではなくて、阿河沙自身を良く知っている人に話を聞きたいんだ」
「お客さん〜、駄目ですよそんなずるしちゃぁ。みんなアガシャ様の事が知りたくて、此処に来るけど、みんな同じ事をやってるんですから。お客さんも同じ目に遭わなきゃ」
従業員は『試練ですよ』と軽口を良い、ソルティーが何を言っても聞き入れはしなかった。そして最後には、
「その地図通りに歩けば、必ずお客さんの会いたい人にも出会える、かも知れない情報も有る、かも知れないんですからね。信じる信じないはお客さん次第って奴ですよ」
ごねる客に慣れている従業員は、さっさとソルティー達を宿から追い立てると、いってらっしゃいと手を振ってお見送りをした。
「どうすんの?」
「行くしかないだろ……」
地図に描かれた観光地点の数は全部で二十四。
しかもわざわざ廻ったかどうかを確認する為の、印を付ける場所まで在った。
到底一日では終わりそうにもない数の多さでありながら、さっさと諦めるには少ない数に、商魂逞しいこの街の人々のしぶとさを感じる。
結局小回りの出来ないハーパーだけを残し、ソルティー達は一路出発地点であるユメイヤ屋敷に向かう事になった。
身の丈5フィラス程にもなる大熊の皮を手始めに、カミオラには数多くの“自称”阿河沙の功績が残されたいた。
些か信憑性に欠ける物から、まあまあそこそこの物まで、有りとあらゆる“手段”を用いて飾られていた。
「これはちょっと嘘臭いなぁ」
此処まで来れば潔く開き直って観光を楽しんでいる須臾の前には、欠けた皿が一枚。
「勇者アガシャの使用していた皿……か……」
ソルティーが皿の横に建てられていた説明書きを、呆れ果てた口調で読む。
二日目最初のこの皿で、漸く半分の地点を廻った事になるのだが、徐々に疲労感だけが増していく。
周りでは、自分達と同じように片手に地図を持つ物が多く見られる。何人かは矢張り自分達同様の反応を示していたが、中には感動を見せる者も居た。
――阿河沙、この事知ってるのかな?
ふとした疑問が須臾に芽生える。
生死がはっきりしていない事は有るだろうが、もし生きていたらこの状況をどう思うだろうか。
――僕なら恥ずかしすぎて、絶対に此処には二度と来ない。
幾ら須臾の知っている阿河沙が感情表現の乏しい男でも、この状況を受け入れないだろうと思う。
どう見てもこれは虐めだ。
「須臾、次に行こうって」
「あ、うん…」
少々難儀な物思いに耽っている須臾の腕を恒河沙が引っ張り、先に皿を安置していた一般家庭を出ていたソルティーとミルナリスの後を追った。
その後も信憑性皆無の物から、賛否両論の物までを、面白半分冷やかし半分で見学し、残り三カ所を残して二日目も終わった。
「俺、親父が阿河沙なの嫌だな……」
宿に着いた途端恒河沙が漏らした一言には、須臾も同感だと頷くしかない。
開き直りから自棄になっての三日目。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい