刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
偶に厳しかったり冷たかったりするが、根本的にソルティーは頼み事をされると断れない性格だと思う。実際に断った試しがない。それを美徳とするか弱さとするかは別にしても、こういう彼らしさが須庚はいつの間にか気に入っていた。
「なんて言うかさ、親父さんが何時も口にしてた、傭兵の心構えって奴かどうかはわかんないけど、今の僕達には意義も大義もちゃんと在るよ。親父さん言ってたし、此奴だと思う奴には死んでも喰らいつけ!ってね。ちょぉっと無茶しすぎた気もしないでもないけど、喰らい付いて良かったと思ってるよ」
「二人を失えば、誰かが悲しむ」
「ソルティーが死ねば、此奴はもっと悲しむよ。僕もきっと泣くと思う。リタも幕巌も、きっと僕の無茶を許してくれる。此処へ来なかった僕が居たなら、そいつの事をみんな意気地無しって言うよ。僕は、僕の大切な人を僕自身の手で護りたい。その中にソルティーもハーパーも入ってる。此奴もおんなじだよ」
須臾は恒河沙の頬に掛かった髪を、指先で寄せて、その寝顔に顔をほころばせた。
「僕にはまだ、親父さんみたいに力はないけど、十人にもならない大切な人を護る位は出来るよ。ソルティーはもっと少ないんだから、死ぬなんて考えないでよ」
「………」
須庚の話を聞きながら、たった一人だけを護りたいとソルティーは胸に浮かべた。自分の腕の中で安心しきって眠る、この大切な温もりを護りたいと。
――私に護れるのか?
死にたくない、生きたいと言ったのは間違いではない。しかし護る為なら死んでも構わないと思うのも本音だ。
見え始めているマグリートの入り口を越えれば、王城はその優美な姿を見せ始めるだろう。
踏み出さなければならない。
乗り越えなければならない。
しかしそれは、今まで胸に秘めていた死への恐怖ではなかった。
「勝つ事が出来たら、もう一度シスルに行きたいな。幕巌に会って、また話をしたい」
敢えて「もしも」は言わなかった。生き残ると願うだけで、膨らむ期待をそのままの形にした。
その言葉に、須臾はしっかりと頷く。
「行けるよ。きっと僕達の話に、幕巌だって腰抜かすよ」
その時が待ち遠しい。そう言うつもりだったが、いつの間にか背後に立っていたハーパーに、須臾の顔が向いた。
ハーパーは手には小さすぎる札を持ち、表情は不敵な笑みを浮かべていた。
「判ったぞ。この様な姑息な手に惑わされるとは、我も堕ちたものぞ」
「あ、そう……」
――姑息って、恒河沙でも勝てる遊びなのに……。
「さあ須臾、次こそは勝たせて貰うぞ」
張り切って札を見せるハーパーに、須臾は溜息を吐きながら立つ。どうやら教えてはならない相手に教えてしまったようだ。
「ソルティーもする?」
「い、いや。流石に札に何が描いてあるかまで見えないし、起こしたくない」
仮に見えていても辞退しただろう。恒河沙を理由にして逃げを打ったソルティーに、恨みがましい視線が突き刺さったが、ハーパーの催促が引き剥がしてくれた。
「はいはい、判った、判りましたって。んじゃ、向こうの方でお手合わせして上げましょう」
「何を言うか。我はだな…」
「はいはい。僕が相手をして貰うのね」
須臾はむきなるハーパーを全身で押しながら去っていった。
二人の遠ざかる気配を感じながら、ソルティーは頬を恒河沙の髪に触れさせた。
「須臾に掛かっては、竜族も形無しだな」
こんな状況で笑う事が出来るなんて、考えてもいなかった事だ。そうさせてくれる者の、なんと強い事か。
身じろぎ擦り寄ってくる恒河沙。彼が居なければ、此処まで来られなかった。
「……ルティ……い…しょに…ごはんたべよぉ……」
「………クッ」
何があっても変わらない恒河沙の夢に、ソルティーは声を抑えて笑った。
王国リーリアン。その王都マグリートは、当時カリスアル世界で最も華やいだ都だ。百を数える竜族に護られ、鉄壁と言っても過言ではない防衛は、対立する国でも羨む程だった。
しかしリグス全域に名を馳せたのは、その国全体の豊かさだろう。
他国と違って戦に頼らない国造りは、長い年月を掛けて大地を潤した。
数百年掛かって実を結んだ、餓えの無い国。理想を現実とする為に、民は誰一人として不平を口にせず努力を重ねた。
村を繋ぐ道は、歴代の王が少しずつ長くした。民はその道を歩みながら、周囲に田畑を広げた。汗を流して耕した畑からの実りは、子や孫に受け継がれた。
建国から千年を過ぎても、子供ですら建国の祖の名前を忘れなかった。
ソルティアス・リー・リアン。
遙か昔、たった一人で竜族の戦を止めた者。知に長けて、誰よりも平和を愛した人間の名だ。
誰もその偉大な者の名を授かった新たな王の代で、この国が滅びるとは、思っていなかっただろう。
マグリートに入る少し前から、ソルティー達を襲っていた地精の気配は完全に無くなっていた。何が理由かは解らないが、しかし彼等にはそれを気に掛ける余裕は無かった。
目の前に広がった光景は、彼等から思考を奪い去ってしまっていたのだ。
立ち並ぶ家の窓には花が飾られている。五百年、ずっと咲き続けた花だ。
その時風が吹いたのだろうか、開けられた窓から布が流れている。その布の前で、女と子供が手を繋いで走っていた。矢張りその先に進む事は不可能な、彫像だったが。
彫像は、街中に溢れていた。数えられない程に。
苦悶、驚愕、脅え。
前を見る者、後ろを振り返ってしまった者、諦めたのか立ち止まって抱き合う者達。誰がその時、何を考えていたのか。少なくとも今それらを見ている者達には、恐怖と絶望のみが映っていた。
もしかすると、戦よりも酷い現実に、恒河沙ですら言葉を失った。
老若男女。種族。何も関係ない。一際彫像の中で大きく見える竜族であっても変わらない。総てが同じ結果だった。
ソルティーの震える手に、小さく堅い何かが触れた。触ってみると、それが泣き叫んだまま石にされた子供だと判った。
ゆっくりと形を辿り、頬を流れていた涙に指を止めた。
「済まない。助けてやれなくて、済まなかった」
跪いて、幾ら謝っても彼等には届かない。魂すら力として喰い尽くされた者達に、再生の道は閉ざされている。
「ソルティー……」
慰める言葉は浮かんでこない。彼の所為じゃないと誰もが思っても、肩代わりなど不可能な苦しみに、言葉は無かった。
ソルティーは、親とはぐれた子供の前で、額を冷たい地面に擦り付ける。出来るなら、この堅い体だけでも親と巡り合わせたかった。誰が、どんな者達がこの国に生きていたかを、総て知っていたのなら。
広大な国土の中、あの日産まれた者も居るだろう。その赤ん坊達は、親の顔を見ずに死んでいったのだ。
家族や恋人、友人、師弟。誰か大切な者と共に最後を迎えられた者だけがましであり、それでもそれが救いにはならない。
「許せない……許せる筈がない……。許せる筈がないっ!」
王の役目は民を護る事。それを果たせなかった自分に、謝罪を口にする資格も無い。
逃げる時に見えた城下の有様は、消える事はない。見下ろしていただけの街。何度か忍んで訪れた、優しさに満ち溢れていた世界。
それを見せてくれたのは。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい