刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
この時初めて恒河沙は、自分としっかりとは視線が合っていないソルティーに気付いた。
恒河沙は髭を引っ張っていた手を、徐にソルティーの目の前で振って見せたが、彼の瞳は全く反応しなかった。顔を寄せて真っ直ぐに覗き込んでも、ちゃんと視線を合わせられないと判ってしまうほど、黒い瞳は虚空だけを見ていた。
「ソルティ……」
「ああ。もう少しも見えていない。真っ暗だ」
ソルティーは寂しげに微笑み、頬に触れた恒河沙の手に自分の手を重ねた。直ぐに恒河沙の手は細かく震え始めてしまい、それを解くのは自分の役目だと思う。
「心配しなくても大丈夫だよ。何処に誰が居るかとか判るから。お前がどんな気持ちか伝わるから」
「でもぉ」
「確かにお前の顔がちゃんと見られないのは辛いけど、お前が側に居てくれたら、ちゃんと思い出せる。どんな顔で笑っているのか、どんな顔で怒っているのか、ちゃんと判るから大丈夫だ。でも、泣き顔だけは思い出したくないな」
今まさに泣き出しそうな恒河沙に、ソルティーは笑い掛けた。
「だから、お前の笑顔だけを思い出させてくれ。その顔が一番好きだから」
「うん……うん……。する。笑ってる」
恒河沙が無理矢理笑顔を作って、出そうになっていた涙を吹き飛ばす。
こんな状況で笑うのは凄く疲れるけれど、それでも頑張って、とびっきりの笑顔を思い出せて貰えるような笑顔を浮かべた。
一生懸命自分の言葉に努力する恒河沙にソルティーは手を彼の頭に移して、気持ちを込めて撫でる。言葉だけの感謝ではなく、触れられるからこそ伝えられると信じて。
「俺、ソルティーの事全部してあげるからな。きれーに髭剃って上げるから」
「お願いするよ」
「うん! 任せて。じゃあ」
「………?」
「今日から俺がしてあげる約束」
近付く気配と、触れる感覚。重心を前に傾けるように重ねた約束の口吻は、実際よりも妙に長く感じられた。
「――やっぱり髭剃った方がいいよ。ちくちくするソルティーはソルティーじゃない」
深刻な口振りで語った恒河沙に対しての返事は、ついぞ聞こえてくる事はなかった。
ソルティーが三人と再会を果たしてから、大凡三日でマグリートに着く。その間三度地精の攻撃を受けたが、ソルティーに出番は一切無かった。
恒河沙が一人で張り切った所為である。元気一杯に石像の群を薙ぎ倒す様は、須臾もハーパーも手伝わなくても良かった程だ。
いつもなら途中で燃料切れになりそうなのだが、恒河沙は殆ど空腹感を訴えなかった。
不思議な事もあるもんだと須臾は呆れて、恒河沙を仕事熱心にさせている人物へ顔を向けるものの、ソルティーからの解答はない。恐らく理の力に満ちているこの空間が、恒河沙の本来の餓えを満たしているのだと思うものの、確証はなかった。
今の恒河沙はする事が沢山あって、食べ物が目に入らないのだろうと、ほとほと感心する事で納得させていた。
恒河沙は、それ程必要ではない筈のソルティーの身の回りのお世話が、凄く楽しいらしい。綺麗に髭を剃って上げるのも、髪を梳かすのも楽しいし幸せだと思う。ついでに着替えや、体を拭くのも手を出そうとするほどで、それは確実にソルティーを困らせていた。
――子供じゃないんだから。
緊張感を持たなくてはならない場所で、悉くそれを破壊していく恒河沙を見るにつけ、育て方を間違ったと須庚が顔を顰めるほどのまめまめしさである。あまりにも細かすぎてソルティーの迷惑ぶりを笑うに笑えない。
見えなくても知覚は出来ると何度説明しても、この状態が幸せ一杯胸一杯の恒河沙は、甲斐甲斐しくお世話を続けてハーパーを近寄らせないまでとなって、一方ハーパーは見て見ぬふりを決め込んでいた。
「本日もお疲れさまでした。――っと、今もか」
腰を下ろしたソルティーに抱っこされて、彼の肩に顔を乗せた体勢で恒河沙は熟睡していた。
恒河沙がでこぼこの石の上で横になるのは、痛くて嫌だと漏らした結果がこれだ。口実なのは判りきっているが、両足を跨いで話しをしながら眠ってしまう。恋人と言うよりまるで親子のようで、だからか、無碍にする気もソルティーは無いようだ。
「ハーパーは良いのか?」
「考え込んでる。解ければ呼ぶでしょ」
此処へ来て使っていた札を変更した須臾によって、ハーパーはまた眠れぬ夜を過ごす事になった。
夜と言っても二つの陽が存在しないこの世界は、時間さえも白灰色に塗り潰されて、どれだけ経っても何も変わらない。四人の中で一番時間に正確な恒河沙が、眠くなったら夜になって、起きれば朝だ。
須臾はソルティーの横に腰を落ち着かせた。
「怒ってる?」
「何をだ?」
「僕達が此処に来た事。ソルティーの努力水の泡だし」
「………」
「まあ今更帰れるとは思ってないけどさ、もしも怒ってるならそれを聞く義務が僕にはあるからね。言い返したりなんかしないから、全部言って欲しい」
見えない為だろうか、微妙にずれた場所を見るソルティーの瞳は、どことなく空虚さを漂わせる。
強引に着いてきたのに怒れと言うのは無茶な言い分だ。須庚自身もそれは判っている。ただきっかけを与えないとソルティーが何も話さない事も、十分に理解しての話題作りだった。
「……ん〜」
恒河沙が微かに身じろぎして、肩から落ちそうになる。それを両腕で支え直す。
「色々あるよ。確かに怒ってはいるが、それだけじゃない」
「何?」
「二人を雇わなければ、こんな事にならなかったとか、須臾の家族に申し訳ないとか。――私は当たり前だが、ハーパーも孤独だ。待ち人の居るお前達を巻き込んだ、自分自身が一番腹立たしい」
ミルナリスや彼女の主にも憤りはあるが、突き詰めてみれば二人を雇った最初に行き着く。ままならない怒りは、結局自分自身に跳ね返っていたのだと言うソルティーに、須庚は話しかけて正解だったと思う。
「此奴も一人だよ。親はもう居ないし、阿河沙が生きていても、敵になってたら親じゃないって思うよ」
「お前が居るだろ。お前の家族も居る。こんな事になるなら、幕巌の頼みを無理にでも断れば良かったと思う」
不意に出てきた名前に須庚は眉を上げた。
「幕巌、何て言って僕達の事頼んだの?」
確かに最初の日、ソルティーは先に幕巌と話をしていた。他にも強そうな傭兵が居たのにも関わらず、傭兵の中で一番若かった自分達を、どんな風に幕巌がソルティーに託したのか気になる所だ。
それを聞くと、ソルティーは僅かにだが逡巡した。幕巌がとんでもない取引でもしたのかと一瞬怯んだが、そうではなかった。
「戦に、人の血しか流れない戦を見せたくないと。一人前の傭兵になる為の、意義と大義を教えて欲しいと。……私には無理だった。私の私怨に二人を巻き込んだだけだ」
聞けばなんとも幕巌らしい頼みであった。あの傭兵国の頭は、戦いが好きなのではなく、戦いを最小限に抑える為に奔走していた。国同士の戦争など以ての外で、それを目前に控えた時に、若かった自分達を逃がす口実にソルティーを使ったのだ。
ただそれ故に、結果が伴わなかったという重く受け止めているソルティーの気持ちも、理解に苦しまずに済む。
――ソルティーって、ほんと損な性格だよ。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい