刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
「素晴らしい知識を持ち、それを誇りとしていると聞くが、ならば戦う前とその後では、どちらが知識を豊かにしたのか。戦いの中で得た知識は、貴方達の心を豊かにしたのか、と。先人達は誰一人答えられなかったそうだ」
始祖と同じ名を授かったソルティーに、幼い故の問い掛けをされて答えられなかったハーパーは、同胞の躊躇いを我が事ように笑った。
ソルティーに視線を向ければ、彼は楽しげに恒河沙がと話し込んでいた。
今はもう何も見えないにしても、石に変わっていく者を彼は見ている。逃げる途中窓から見えた城下の有様に、彼は何度も腕を引く兵士に罵声を吐き出したらしい。逃げ出す訳にはいかないと、言葉を荒げたのだと。そうした筈だ。それが自分が育てたと胸を張れる主の姿だった。
しかし家臣として、国を護る者として、国その物である王をむざむざ殺させる訳にはいかない。もし、自分がその時国に居たとしても、何よりもまずソルティーを逃がしただろう。
《お前が国を離れていた事を感謝する》
自分を取り戻したソルティーが、初めて口にしたその言葉を、「生き残ってくれていて良かった」とハーパーは捉えていた。今にしてそれだけの意味ではないと知った。
一人では到底抱えきれない、焼き付いて消せない光景を、ソルティーは誰かにも背負って欲しかった。喩えそれがハーパーでなくとも、リーリアンという国を知り、記憶に留めていた者で在れば、誰でも良かったのかも知れない。だが、それを否定する事は出来ない。この現実は、たった一人で耐えきれるものではない筈だ。
それが今、ソルティーは本当に楽しそうに笑っている。過去を忘れたわけでもなく、過去を背負い続けていても尚、未来に向かって歩く事を決めたからこそ、彼は本当に笑みを浮かべる事が出来るようになった。
――あやつが居れば、変わるのかも知れぬ。賭けてみるしかない。
ソルティーと向き合って話している恒河沙の後ろ姿は、それだけでも楽しそうだった。
大剣への疑念は、既にハーパーの内から消えていた。単純な話だ。これまでそうだと思っていた事の中から、一つを裏返せば全てに辻褄があったのだ。
ソルティーの手助けをする為に現れたミルナリスが、最初から恒河沙を目的にしていたとするだけで、ソルティーの恒河沙に対する苦悩までが知れるようになる。
古の時代、創造主によって最初に造られた神は一人だった。それは理の力の流れを司る神だった。続いてもう一人の神が造られ、生命の流れを司った。その後に造られたのは四人の神。それぞれに生命の営みに欠かせぬ元素を司り、その後に神は造られていない。
ならば今存在するもう一人の神は何者なのか。いつこの世界に誕生したのか。
魔族の主、冥神オロマティスは、誰によってこの世界に組み込まれたのか。
ソルティーの剣ローダーに与えられた力の源は、神ではない。創造主によって消された者達。創造主とそれに創り出された人間との子供。故に彼等の使う力は、世界の理その物となる。この世界の根源たる理の力を消せるのは彼等しか存在せず、それ故に理の力を消せるだけの力を持つ者は、創造主かそれに類する者だけとなる。
この様な事は、もうこの世界で知るものは居ない。居るとするならば、それはアストアの王か、どこかで息を潜めて死を待つ竜族くらいだろう。
そう、だからこそミルナリスはアストアにソルティーを誘導し、彼から恒河沙を引き離さないようにした。
主の命令でのみ動く精霊が、自分を危険に曝しても恒河沙を護った。それを見た時に気付くべきであった。
ソルティーを助けたいという言葉を隠れ蓑にして、あの魔族は恒河沙をこの地に導いたのだろう。
恒河沙は何も知らない。須庚も大剣に関わる事を知らない。ソルティーも最初から知っていたわけではないだろう。彼が恒河沙の事で思い悩む様子を垣間見せるようになったのは、そう遠い前ではない。
恒河沙を引き離せば、ミルナリスが何をするか解らない不安があったのかも知れない。もしくは妖魔に命令をしている阿河沙との関係もあるのかも知れない。
しかし結局は、ソルティーは恒河沙が結界には入れないと踏んでいた。ソルティーが鍵に選ばれたのは、彼の魂の半分が楔を打ち込まれたかのように亡国と繋がっていたからで、恒河沙にはそれが無かった。
だが、ミルナリスはそれさえも見越していた。シャリノの力を最大限に使える、たった一度だけの手段を使う為に、何としてもリーリアンと現世がもっとも近い場所に、恒河沙を辿り着かせた。
「恒河沙は……主と巡り会う定めがあったのやも知れぬ」
ミルナリスにはしてやられたという気持ちはある。しかし彼女が何を考え、冥神が何を企もうと、恒河沙が敵になるようには思えなかった。
少なくともソルティーに生きる目的を与えたのは恒河沙であり、今も尚それを元気いっぱいに分け与えているのは否定しようがない。
「そうなのかも……。多分、そうじゃなかったら、僕達は此処に来られなかった」
須庚はハーパーとは別の見方で言葉を返し、二人は敢えて口にしたい恒河沙の抱える何かを胸にしまった。
今耳に聞こえるのは、ソルティーと居るだけで楽しさの溢れる恒河沙の声だけ。過去に響いた鳥の囀りを幾ら待っても聞こえないなら、今は彼等の楽しげな声だけで十分だった。
「なあ、俺な、お願いがあるんだ。怒らないでしてくれる?」
恒河沙が定位置であるソルティー脚の上に座って、神妙な顔を浮かべてみせる。
「何?」
「あのな、髭剃って欲しい。顔ひっつけると当たるからやだ」
先刻抱き付いた時に、頬に触れた感触が、言い表せない位に気持ち悪かった。
会えない間に、初めて会った頃の風貌に戻ってしまって、小汚いとは取り敢えず言わないが、一度も櫛を通していないと思われる乱れた髪もむさ苦しい。
――無い方がもっと格好いいのになぁ。
基本的に恒河沙はソルティーの顔も好きだから、髪だってきちんとして欲しい。喧嘩は荒っぽいが、須臾に叩き込まれた美的感覚は、結構細かく仕切られているのである。
「……ああ、そうか。そんな暇が無かったからな」
確かにそんな暇がなかったのは事実だが、忘れていたのもまた事実だ。生来自分の外見に対してはとことん無頓着なだけに、恒河沙が居なければ気にするのは難しい。
「しかし、そんなに髭は駄目か? 男らしくて格好いいと――」
「髭嫌い」
にべもない返答にソルティーは絶句を余儀なくされた。
見えてはいない。いないのだが、恒河沙の本気がひしひしと伝わってくる。きっと真剣な眼差しを浮かべ、唇には少し怒ったような力が入っているだろう。
――どうせなら髭顔の私も好きになってくれたらいいのに……。
自分の顔が恒河沙に気に入られているのは勘付いていたが、髭に関してだけは殊更頑固な恒河沙に言えば、「それはそれ」と言ってのけそうだ。
「なぁ〜〜〜髭ぇ〜〜〜」
剃れと言わんばかりに恒河沙は髭を摘み、ぐいぐいと引っ張り始めた。どうやら強硬手段も目前らしい。
「ハァ、判った」
「やった!」
「ただし、私の代わりにお前が剃ってくれるならな」
「……? どうしたの?」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい