刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
その滴が顔に落ちてきたソルティーは、何も握っていない右手を上げ、恒河沙がの顔の方へと近づけていった。最初に指先に触れたのは鼻筋だった。直ぐに恒河沙の手が手を握り、自分の額に押し当てる。
「お前は、悪くないだろ……。恒河沙を助けるのは、私の……役目なんだから」
「ちがっ……だって俺がっ」
「私の大切な物を、傷付けたくなかっただけだ……。だから、恒河沙は悪くない」
「ソルティ……ヒック……ヒッ……」
優しすぎる言葉に恒河沙がは声を詰まらせ、とうとう嗚咽しか出せなくなってしまう。須庚はそんな泣いて震える肩を叩いてから、散らばった荷物を広いに向かった。
ソルティーが体を起こせるまでに回復したのは、倒れてから一時間半ほど経過してからだった。
その間恒河沙はソルティーから片時も離れず、起きてからもぴったりと寄り添い、支えているのか支えられているのか判らない有り様である。須庚とハーパーで防御魔法を張り巡らした場所に移動してから、漸くひとまずの安息を得た。
「どうやって此処に入ってこられたんだ」
石で出来た木の根本に座ったソルティーから最初にでたのは、当然の質問である。
答えたのはばつの悪い表情を浮かべる須庚だった。
「うん〜〜まあ、僕達の力では無理なんだけど、シャリノがね」
「シャリノが?」
流石にソルティーもその名を聞くとは想像していなかったのだろう、驚く声には些かの動揺が含まれていた。
「そう。なんでも、ミルナリスが神様と繋がってとかどうとか。まあその辺は、よく判らないのよ。詳しく説明してもらう時間も無かったし」
須臾が両手でお手上げの形を作り、ハーパーもそれに頷いた。
言葉で説明出来ない力が働いた事は確かで、ソルティーには適当に説明しても、判断が出来るだろうと二人は考える。その考えは正確だったらしく、ソルティーは唇を噛んで俯いてしまった。
堅く瞳を閉ざし、両手は硬く握られる。とても喜んでいるとは感じられない様子だ。
――それ程までにこの子を巻き込ませたいのか! 犠牲になるのは私だけで充分ではないのか、ミルナリスッ!!
恒河沙達にとっては大いなる救いの神となった彼女は、ソルティーにとっては残酷な死に神となった。
「ミルナリスはあんたを助けてくれって言ってたって」と語られても、最早彼女が何を考えているかは問題ではない。恒河沙がこの中へ導かれた事だけが、憤りを感じる。
けれどこの感情を有りの儘にさらけ出す事は出来ず、強く握られていくだけの手に誰かの手が重なった。
「ソルティ……、俺、ソルティーと一緒に居たいよ。離れたくないよ」
恒河沙はソルティーの手を握り、帰れと言われたくない一心で言葉を紡ぐ。
「ソルティーが好き。一瞬でも離れるのやだ。ずっと側に居たいんだ。側に居させてよ」
「馬鹿だな……お前は」
「それでいいもん。ソルティーの側に居られるなら、馬鹿でもなんでもいい。賢くなくていいから、だから、だから……」
「今からどう帰せば良いと言うんだ。無事に帰れる保証がどこにある。待っていろと言ったのに」
「でも、俺、待つのやなんだ。どんなとこだって、ソルティーが居るとこの方が、俺はいいんだ!」
「……ほんとにお前は」
呆れてしまう程の一途な気持ちがソルティーに笑みを浮かべさせる。
周囲の思惑など知らず、自分自身の置かれる意味さえも知らずに、ひたすら一つの気持ちにだけ正直である恒河沙に、ずっと負け続けてきたのだ。
恒河沙に帰るという選択肢が無いのなら、帰る手段があっても帰らないだろう。きっともう何を見せても、何を聞かせても恐れはしない。そんな彼を残していく方が、より悲惨な結果を招くようにも思われた。
「此処にお前を残して行く方が、遙かに心配だ」
「ソルティー……じゃあ!」
「どうなるか判らないが、皆で最後まで行こうか」
ソルティーが告げた瞬間、恒河沙は彼の首に抱きついていた。
恒河沙はソルティーの肩越しに、思いっきり笑顔になる。考えていた殴る予定も、置き去りにした愚痴も、浮かんでくる事さえなかった。ただ嬉しくて嬉しくて、漸く辿り着いた自分の帰る場所をしっかり抱き締めるだけだ。
須臾とハーパーは、二人の姿に胸を撫で下ろし顔を見合わせると、どちらとも無く安堵の溜息を漏らした。
ソルティーが歩けるようにまでなるには、また少し時間が掛かった。修復不可能な体内の損傷は、ソルティーが考える以上に酷かった。
ハーパーと須臾は、待っている間に結界内の風景に何度も顔を顰めた。
「なんか絵本にあるみたいな、呪われた世界だね」
嘗ては遠い山々を眺める、緑の草木が輝きを放つ場所だっただろう。足を動かすたびに、パキンパキンと音を立てて砕けていく、繊細な石の草を感じながらに思う。
須臾の呟きにハーパーは頷こうにも体が動かない。
ソルティーに聞かされてはいたが、実際自分で見るの物は、想像とは全く違っていた。
――この様な……。
それ以上思考は働かなかった。
須臾の言葉通りに、動かない世界は絵の中の様だ。総てが同じ色の石になって、あらゆる動きを止めた異様な世界。記憶に留めていた美しかった国は、その全てを殺されていた。
遠くに放牧されていた家畜が、天を見上げて泣き声を上げようとしている姿が、虚しさを掻き立てる。人の彫像に至っては、視界に入れるのも憚られた。
何かから逃げようと、必死の形相を浮かべる人の形をした物が、道に幾つも存在する。その総てがマグリートに、いや、王城へ向かっていた。恐らくその当時、彼等は口々に助けを求める言葉を吐きだしていたのだろう。恐れと悲しみに包まれても尚、王の元へ辿り着ければ助かると信じていたに違いない。
――主はこれを見たのか。聞いたのか。
本当に心の底からこの美しかった国を愛していたソルティーが、逃がされながら何を見たのか。その時何を思ったのか。代われるものなら代わって、この痛みを軽くしてやりたい。
「ハーパーの仲間はまだ見ないな」
目の上に手で庇を作りながら遠くを望む須庚が、何気なく口にする。こうなっては生きている竜族に会えるとは思えないが、全く見ないのも想像と違っていたらしい。そんな独り言だった。
「この国は、嘗ては我等竜族の統べる国だった」
「え?」
ハーパーからの返事は考えていなかった須庚は小さく驚いた顔を向け、過去を忍ぶ眼差しを見つけた。
「竜族の国、人間の国、亜人の国、そして精霊の国が世界の全てであった。しかし我等の祖は過信を招き、傲りに沈み、この地を戦いの地に変えてしまった」
ハーパーが生まれるよりもずっと昔の話だ。
「一つの諍いが戦いとなり、いつしか他の国にも災厄を撒き散らす物へとなった。その時に一人の人間が訪れ、竜族の戦いを終わらせた。ソルティアス・リー・リアン、その者を王として受け入れ、竜族と人間が共存する国へと成した時、竜人の時を終えた同胞は世界へと旅立つ約束をしたのだ」
竜族の持つ英知を世界中に広げる為に、山や森に移り住んだのだという。個体数も少ない為に、竜人を見るのも王都付近だけだと言う。
「へぇ……。人間が竜族の戦争をね。どうやって止めたの?」
「問うたそうだ」
「何を?」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい