刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
涙と鼻水が空へと昇る不思議な光景に目眩がした。はっきり言って、気絶できるものなら気絶したかった。
――俺、こんな所で死んじゃうの? やだよ俺、まだソルティーに会ってないのに!
「ソルティ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
「恒河沙っ!!」
「へ?」
聞き覚えの在りすぎる声に、恒河沙はくるりと体を下へ向けた。
既に何もかもがはっきりと判る地上に、両手に剣を携えたソルティーの姿が見えた。
「ソルティー見つけたーーーーーッ!!」
ソルティーが空を見上げた瞬間に聞こえたのは、情けない恒河沙の悲鳴だった。
暗闇となっている視界には、その姿は映っていない。けれど頭上の遙か上にある三つの気配は、薄い光となって闇の中に浮かんでいるように感じられた。しかもその内一つの光は、為す術もなく落下しているらしく急速に大きくなっていた。
空中で速度を緩めた二つは問題ないだろう。その一つから別の薄い気配が落下物に向かって放たれていたが、恐らく間に合いそうにない。
――あの馬鹿がっ!!
どうしてと思う前に、体が勝手に行動していた。
自分の名を叫ぶ落下物の真下に走り、鞘に収めたばかりの剣を両手に握る。
「恒河沙っ! 防御しろっ!!」
ソルティーはあらん限りの力で声を張り上げ、祈る気持ちでローダーの力を同時に解放した。
剣に刻まれた文字は、右に白い輝き、左には黒の輝き。
嘗て神殿の地下で解放した時よりも強い光は、触れ合う先から交わる事なく反発する。まるで火花を散らすかの如く大気が振動し、圧縮されて塊となった空気が次々と襲いかかり、ソルティーの頬まで波打たせる程だった。
拒絶し合う剣は巨大な同極の磁石の様で、近付く対を攻撃し続けた。そうして作られていく白と黒の凝縮した光を纏う剣を、ソルティーは渾身の力で触れ合わせた。
《其が礎よ、道を開け》
全身の意識をローダーに集中させ、言葉と共に身に宿る力を両手に放つ。
体中に満ちていた理の力が、一気に両手に向かって流れていく。それでも足りないと、周囲に充満した力までも、ソルティーの体を通して大量に駆け抜けると、不気味な感触が体のあちらこちらから響き渡った。
――まだ、だっ!
「弾けろっ!」
ソルティーが叫ぶと、異なる同じ意味を持つ剣の輝きが一層際立ち、反発しあいながら力を喰らう。剣身に浮かんだ長い文字が、端から波打つように一際激しい異彩を放った瞬間、ドゥンッと大気が弾ける音が響いた。
「クッ!」
歪んだ空間が触れ合ったと同時に、空間は弾けた。
圧縮した空間が周囲に膨らみ、爆風を伴う流れとなってソルティーを突き抜ける。上空へも放たれたそれは、落下する恒河沙の体を持ち上げた。
「うわぁっ! ……うへ?」
下からの避けられない圧力にまた、上へと跳ばされた恒河沙の体に、風の精霊が追い着いた。
見えない風に支えられた体は、空中に浮かんだ。
ゆっくりと地上へ降り始める自分に驚きながら、恒河沙は地上を見下ろす。
「ソルティ……」
地上に立ち尽くしたソルティーの姿は、自分を見ていなかった。地面へ顔を向け、両腕は力無く下がっている。その手からローダーが落ちた。
「ソルティーッ? は、早く降りろ! 降りろよっ!!」
手足をばたつかせて、恒河沙は必死に訴えた。
恒河沙を取り巻く精霊が上空の須臾へと顔を向け、彼が頷くのを見て、降下の速度を速めた。
ソルティーの体は自分を支えられずに膝を着く。体を突き抜けた力が、体の中で暴れていた。吹き出しそうなうねりを抑え込まそうとしても、元から統制された力ではない。まるで体中の血管の中に生きたへどろが詰まり、体中を潰す為に暴れ回っているようだ。
――まだだ……此処じゃない……!
剣を拾おうとした腕は、地面に手を着くだけに終わった。
「……グッ……ガハッ」
体内で暴れた力が出口を求めて口から飛び出したが、それは惨たらしい血肉をふんだんに連れてきた。
赤黒い大量の血液に混じって地面に落ちたのは、原形を留めない潰れた内蔵だった。
「ソルティーッ!!」
恒河沙は地面に爪先が触れた途端走り出し、今にも吐瀉物の中に顔を入れようとしていたソルティーに駆け寄り支える。
「やっ、やだっ、ソルティー?! ソルティー!!」
ソルティーが吐いた夥しい血に恒河沙は青ざめた。死の影が過ぎる。全く力の入っていない体は重く、横にさせる事さえもままならない。
「どうした?! ――なんてこった!」
遅れて地面に着いた須庚とハーパーも急いで駆け寄り、どうにかソルティーの体を横にした。
覗き込んだソルティーは、目を開けてはいたが視点は定まっていなかった。
黒に染まりきった瞳は、もうどこを見ているのか判らない。
「剣……を…」
「ソルティー?!」
「剣を……くれ……」
血に汚れた唇が震えながらもそれを告げ、指先が喘ぐように空を掻いた。
「は、はいっ」
「恒河沙、これを」
ハーパーが転がっていた剣の一本を選んで恒河沙に渡した。ソルティーの手に剣を握らせると、剣はさっきとは比べものにならない淡い白い光を放った。
死した体に治癒は利かない。見守るしかできない三人の前で、ソルティーは目を瞑り深く息を吐き出した。
「これ使ってやって」
須庚が濡らした布を恒河沙に差し出し、口の周りを拭いてやれと言う。
苦悶の表情を浮かばせるソルティーの口と、髭に覆われた顎を拭った布には、とても今吐き出されたばかりとは思えない汚れが付いた。
――ソルティーの病気……重かったんだ……。
内臓を病に冒されると腐ったような血の色になる。ソルティーが吐いたのはそれよりももっと酷く、しかしだからこそ恒河沙は彼の生きたいという叫びを、そのままに受け入れる事が出来た。
ソルティーの不思議な剣は、きっと強い治癒魔法か何かの力がある剣だと思えば、恒河沙なりの納得にも至れた。そうでなければおかしすぎる。そうでなければならないのだ。
普段はどんなに軽薄な台詞を並べても、怪我人や病気の人を見れば須庚はほっとかないのに、今は心配そうな顔をするだけでソルティーの状態を調べようともしない。ハーパーはハーパーで、大切な主人が倒れているのに、剣に任せたきり動かない。どちらもまるで、為す術がないと決めてかかっているようだ。
一度気になれば、どんどんと不安は膨れあがってきた。握り締めた汚れた布のおかしささ、意識の外に追い出す事が出来なくなる。
――違う……ソルティーはただの病気なんだ……。
それ程多くの病人を診てきたわけではないけれど、少しすれば死ぬような者達は、幕巌の店で沢山看てきた。見たくないのに自然と向かってしまった視線の先には、子供の拳程もある臓器の欠片が落ちている。どこの部分かはここからでは判らないが、それがソルティーの食事をとらなくなった理由だと浮かぶ。
――そんな事あるもんか!!
自分に隠れて食べているのだという、ハーパーや須庚の話を信じていた。信じたかった。それなのに、信じさせてくれるものが、どんどんと恒河沙の前から消えていった。
「ソルティ……」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい