刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
シャリノはさして面白くもない事を笑って言い、須臾の前を通り過ぎる。そして眠ったままの恒河沙の横に立つと、小さな足で恒河沙の後頭部を蹴飛ばした。
「てめぇは何時まで寝てやがるんだ、起きろ!」
容赦のない一発は相当の痛みだったらしく、恒河沙はしっかりと起こされた。しかし、
「いってぇ〜〜〜!!!」
後頭部の痛みに目は閉じられたままで、両手で頭を抱え込んだ。
「起きろって言ってるだろ! こっちはお前等みてぇに暇じゃねぇんだよ、さっさと起きて支度しやがれ!」
いつも余裕を伺わせていたシャリノとは思えない苛立ちは、見ようによっては喧嘩腰の激しさだった。
「ちょっ、一寸、何だよ支度って?」
乱暴に恒河沙の腕を吊り上げようとするシャリノを、須臾が止めた。
突然現れて無茶をされるのも、訳も分からず追い立てられるのも、幾ら知り合いだからと言っても黙っていられない。
しかし随分と気が立っている様子のシャリノは、須臾の腕をも振り払って、年相応以上の大人の皮肉を感じさせる笑みを見せた。
「支度は支度だ。お前等、この中に入りたいんだろ? 俺が送ってやっからよ、さっさと支度しな」
「誰だよ! 今蹴ったの奴は!」
「どういう事っ!?」
恒河沙と須臾の大声が被さり、シャリノは無意識に自分の耳を覆った。
「うっせえな、もう少し協力者に相応しい接し方しろよ」
「協力ってどういう事さ? どうして急に……」
シャリノは、訳が判らないと両手を振り広げる須臾に片手を突き出す。
「黙って話を聞け」
「ああーーー!? 兄ちゃん! ……と、ちっこい大人の兄ちゃん」
折角話しを進めようとしたシャリノの言葉を、頭をさすりながら立ち上がった恒河沙が掻き消した。
ちっこい大人の兄ちゃんとは勿論シャリノ事だが、名前はベリザと共に記憶から抜けていた。それでもまだ、言われた方は不愉快になる表現を、片隅にでも覚えていただけましだろう。
「蹴ったのちっこい兄ちゃんか?」
シャリノとベリザが現れた疑問よりも、蹴った相手が気になる恒河沙が、シャリノに指を指した瞬間、腹に子供の肘がめり込んだ。
「黙って人の話を聞きやがれ!」
「ぐぅ〜〜〜〜〜っ」
「大丈夫か。シャリノ、今、疲れてる。加減出来ない」
「ベリザも黙れ。良いか、俺が来たのは、先刻も言った通り、お前達をあの中に入れる為だ。それ以外には無い」
「えっ! ほんと!?」
大声で喜ぶ恒河沙の膝に、シャリノの爪先が入る。恒河沙が進行の妨げになっているのは誰の目からも明らかで、配慮したハーパーが彼を引き寄せる事にした。
「でも、出来るの?」
風壁を飛び越えてシャリノが移動できる事は知っているし、その力がオレアディスに由縁する事で、彼の力を疑ってもいない。しかし目の前にある風壁は、結界である。過去に人の造り出した結界に封じ込められていた事を思い出せば、単純に諸手を挙げて喜べる話ではなかった。
シャリノもその事は理解しているのか、多少ばつの悪そうな表情を浮かべる。
「まぁな。俺の力だけじゃあ無理だが、今はそれが出来る」
「どうして」
「お前達の知り合いに頼まれて、それが出来る様になった。と言う訳だ。ミルナリス、知ってるだろ」
どうしてかミルナリスの名前を口にした時だけ、シャリノ表情が強張っていた。
須臾は取り敢えず頷くだけに納め、シャリノの次の話を待つ。
「まあ俺も、風壁だけなら通り抜ける事は出来るが、この結界はオレアディス様の力だけじゃ無理みたいだからな、彼奴が俺の力を増幅させている。だから今の俺は、一寸ばかし違うぜ」
シャリノは言葉だけは簡単そうに言ってのけたが、妙にぎらついている双眸には、気丈さで持ち堪えている様子が窺えた。
「なあ、ミルナリスは? どこかに居るのか?」
久しぶりに聞いた名前に反応して恒河沙は周囲を見渡した。
「此処に精霊が来たら、力を吸い取られて消えちまう。俺達と違って、彼奴等は理の力を剥き出しに生きてるからな。まあそれに、彼奴は今俺の補助をするのに力尽きる寸前だ。だから彼奴の為にも、早いとこ支度しろ」
「力尽きるって……分かった!」
恒河沙は地面に散らばった自分達の荷物を拾い集めるのに走った。脳裏には彼女が最後に告げた言葉が蘇る。
「ソルティーを助けて下さいね」と確かにミルナリスは言ったのだ。
「ねえ、協力者ってミルナリスだけ?」
とてもそれだけでは解決出来ない事を、やんわりと避けていたシャリノに、小声で須臾は聞く。
「早く支度してくれないか? 俺の体は、神様連中の力を長い時間抑えられないんだ。破裂したら、もう二度と機会は来ないぞ」
シャリノの慎重な言葉に、須臾は表情を強張らせながらも頷いた。
ミルナリスが今のシャリノを補助していると言うのは、シャリノとベリザの二人と、精霊神達を繋ぐ役割を彼女がしている事だ。
シャリノだけではなくベリザも用意されたのは、彼もオレアディスと今でも繋がっているからであり、寧ろ彼の方が蘇生を受けた分繋がりは深い。
ミルナリスが力尽きる寸前と言うのも事実である。精霊神達の元へ赴くだけで傷付いた体を、力の接続の出来る体に戻すには時間が無さすぎた。回復もままならない状態で、神々の膨大な力を集めているのだ、幾ら魔族であっても長時間は保たないだろう。
本当はソルティーが中に入って直ぐにと考えていたが、ミルナリスの体がそれを許さなかった。それでもシャリノの元へ訪れ力を繋いだが、膨大な力は彼女自身の力を崩そうとしている。ミルナリスが消えれば、この計画自体が水泡に帰す。時間はもう一刻の猶予もなかった。
粗方の荷物を鞄や袋に詰め終え、須臾と恒河沙はシャリノの前に立った。その後ろにハーパーが立ち、シャリノ言葉を待った。
「ベリザ」
「ミシャール達からの差入れ」
ベリザが恒河沙に渡したのは、両手に余る大きさの袋だった。中身は食べ物。
「ありがとう!」
「言っておく」
抑揚のない言葉を出したあと、ベリザは恒河沙達を挟んでシャリノの前に立つ。
「ねえ、これが失敗したら、僕達どうなるの?」
「風壁の中に入って、そのままあの世だな」
「絶対成功してよ!」
必死の形相で訴える須臾にシャリノは一端笑ったが、直ぐに緊張した顔つきになる。
失敗しても冗談では済まない事だ。一度だけしか与えられないこの機会を、潰せるだけの度胸はない。世界がどうなろうと知った事ではなかったが、大切な者がいるのに逃げ出せるほど臆病でもなかった。
「それじゃあ放り込む前に、彼奴からの伝言だ。絶対にソルティーを助けろだってよ」
「大丈夫!」
「出来る事は全部するって言っといて」
「俺は伝言配達人じゃねぇ、自分で言え。じゃあお前等、あの旦那の事をしっかり考えていろよ。他の事を考えて、何処に吹っ飛ばされても知らねぇからな」
気休めかも知れない言葉だったが、失敗する確率を減らすきっかけは、総て行ってからでないと気が気ではない。
「分かった!」
もとよりソルティー以外を考えられない恒河沙は、すっかり信じて頷いた。
「んじゃ行くぜ」
シャリノは左腕を前に突き出し、右手でそれを支えた。掌を三人に向け、きつく瞼を降ろす。ベリザも同じ事を右手で行う。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい