刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
「もしもの時は頼む」
躊躇いながらも預かっていたローダーをハーパーは返し、これから行われる事が失敗すると知っている者の言葉に頷いた。
ローダーを腰に戻しながらソルティーは須庚へ顔を向けたが、何かを言う前に返事が返される。
「僕はおとなしく見てるさ」
須庚も全て理解していた。
二人で行っても、きっと恒河沙だけは弾かれる。しかしそうしないと恒河沙は、決して納得しないし、須庚達が止めても風壁に突撃してしまう事を。
「それで良い。恒河沙、行こうか」
「うん」
別れを口にしない限り長居をする気にはなれず、ソルティーは特に何も言わずに風壁へと向かって歩き出した。
その後ろを恒河沙が途中落ちていた大剣を拾い上げて付き従う。ソルティーは大剣をしっかりと背中に備え付けるように念押しした。
――そうだ、それで良い。
冥神、そして冥神の仮体である阿河沙。それらを結びつける大剣が、もしかすると第二の鍵である可能性がある。大剣を使わせない為にも恒河沙自身に引く事を決めさせないとならず、だからこその手段だった。
「ハーパー、後で何て言って彼奴を慰めたら良いのかな?」
「我には、何も思い浮かばぬ」
不可能を可能にする術は、人の身には余り多く授けられていない。此処まで来る事が出来たのも、偶然と呼ぶには良すぎた運の結果だった。
自分の力だけではどうする事も出来ない時に、真っ先に思いつくのは神の存在。
しかしその神ですら万能ではないと知った今は、もう何も出来なかった。
――成功すれば良いって思いたいのに……。
見守る事だけを強いられた須臾達の前で、ソルティーがローダーを両手に掲げる。
ソルティーの腰には恒河沙が真剣な顔をしてしがみついていた。
「離れるな」
「うん!」
腰に回した腕に力を入れ、絶対に離れない意気込みの元返事をする。
ソルティーはローダーを重ね合わし、深く息を吸い込んだ。
《我が身を基とする礎は響鳴を呼ぶ者》
起伏のない、呪文とは異なる言葉が、ローダーに刻まれた文字に光を灯した。白から黄色、黄色から赤へと、淡く変化していく光を、普段の恒河沙なら綺麗だと思うが、今はそんな余裕はない。
《我が力、我が命、其の礎に永久不変を刻まれし鍵》
ソルティーは光り輝くローダーを握り締め、地面に平行に風壁へと突き刺した。
反発する力を感じながら剣を差し込むソルティーの瞳は、剣の光が目映くなる程に、その色を変えていった。
青から黒へと完全に変貌をする頃には、ローダーは半分まで風壁に埋まっていた。
《鍵の名はソルティアス。唯一にして絶対の言葉を紡ぐ代行者》
その最後の言葉と共に剣を縦に捻る。そしてそこからは、一気に剣身は風壁へと全身を入れた。
四人の目の前で、剣の突き刺さった場所から放射状に、風壁は灰色から黒へと変色していった。ハーパーですら簡単に飲み込める大きさまで、闇への変色は一気に進行し、そしてぴたりと止まる。
「入るよ」
「うん」
扉の様に口を広げ、総てを飲み込む姿に見えるそこへ、ソルティーは一歩足を踏み出した。
剣を持っていた手が闇の中へ引き込まれ、腕が沈んでいく。
溶け込みそうな感覚にソルティーは眉を寄せた。
もう一歩踏み出すと、体は呆気なく闇の中に入りそうになったが、それを留めたのは恒河沙の腕だった。
「へっ?」
恒河沙の手に触れた感触は、先刻と同じ反発する力だった。
「いっつぅ〜〜」
火傷を伴う鋭い痛みに恒河沙の顔が歪む。
「手を放すんだ」
「嫌だっ!」
現実に熱い訳ではない壁が、じりじりと皮膚を焼き焦がす。
歯を食いしばって自分の手首を掴んだ右手に、更に力を入れる。一瞬でも気を抜けば、たちまち引き剥がされそうで恐い。
「俺も行くんだっ!」
ソルティーを引き込む力と、恒河沙を拒絶する力が均衡を保ち、それが余計に腕を焼いた。
「恒河沙、無理なんだ」
そう言いながらもソルティーの気持ちは揺らいでいた。恒河沙の痛みが自分の事のように感じられ、僅かに体が退避へと向かおうとする。しかし風壁に引き込まれたローダーは、完全に風壁と同化したかのように動かない。
「無理じゃないっ、これくらい平気だっ!」
痛みから自然に滲んだ涙を堪えて虚勢を張る姿は、見えなくても聞こえなくても、その必死さだけが伝わり悲鳴となった。
ソルティーは思いきってもう一歩前へと踏みだした。
ソルティーは恒河沙ほど頑張れなかった。始めからこの結果は見えていた。ただ彼に行く事は出来ない事を、直に知って欲しかっただけだ。これ以上痛みを堪える恒河沙の姿は見たくなかっただけだ。
――すまない。
「ソルティ――」
――どうして?
抵抗出来ない力に、絶対に離さないと誓った手が弾かれた。最後に恒河沙の手を解いた感触は、ソルティーの指の様な気がした。
目の前でソルティーの体が闇に飲まれていく。途中ソルティーは少し振り返り、微かに笑みを浮かべた。何かを語りたそうなその顔も直ぐに闇の中に飲まれ、全てが恒河沙から遠ざかっていった。
恒河沙は、体は勝手に手が触れられない場所へと遠ざけられるのに、視界だけがその一点に留まるのを呆然と眺めた。
受け身を忘れて地面に叩き付けられても、消えていったソルティーの姿の方が痛みを感じる。
歪んでいく景色の中、恒河沙の大切な人を飲み込んだ闇は、あまりにも呆気なく霧に流される様に消えた。
「う…ウ〜〜ッ〜〜」
血が滲むくらい唇を噛む。腕を護っていた籠手は役に立たない物へと変わって、地面へと流れる血は止まらない。
腕くらい失っても構わなかった。それで一緒に行けるなら、手でも足でも千切れたって構わない。そうさせて貰えなかったのが、悔しくてたまらなかった。
「ヴ〜〜〜〜ッ!」
割れた爪を乾いた地面に食い込ませても、まともな言葉一つ吐き出せない。
腹が立って腹が立って、それが手を放した自分に対してなのか、勝手に諦めてたソルティーになのか、それとも彼を飲み込んだ風壁になのか。
ソルティーが自分を心配して、前に踏み出したのは判っている。我を通していれば、二度と剣が握れない腕になっていたとも判っている。それでも着いていきたかった。その自分の気持ちを考えてくれなかったソルティーが、卑怯者に思えた。
「恒河沙……」
座ったまま風壁を睨み続ける恒河沙の横に、須臾が跪き彼の腕に絡まった焼けた皮を取り除く。後ろには、ハーパーが言葉を失って風壁を見ている。
――どうして一緒に行けないんだよっ! どうして連れていってくれないんだよっ!!
どんな事をしてでも絶対に一緒に行こうとは言ってくれなかった。どんな優しい言葉を口にしてくれても、恒河沙が一番欲しい言葉を躊躇った。どんなに見ないふりをしていても、心の底が伝われば、この結果をやっぱりと思ってしまう。
ソルティーが自分を連れていきたくなかったんだと感じれば、恒河沙は泣く事すら出来なかった。
闇飲まれたソルティーの体は、その瞬間灰色の世界へと吐き出された。
「恒……」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい