刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
二人にそう語りかけると、二人の姿は微笑みながら瑞姫と重なった。その瞬間だけ慣れない感触に瑞姫の表情が顰められたが、直ぐにいつもの元気一杯の笑顔に戻る。
「それじゃあ、あたし達は呼ばれるのを待ちましょうか」
「そうだな。後は彼次第だ」
「なるようにしかならない事だけど、頑張ろう」
互いの顔を見合わせながら、三人は決意を持って頷いた。
そして、始めに消えたのは瑞姫。その後を慧獅が追う様に姿を消し、晃司も消えた。
三人が向かった先はそれぞれ別だった。
次ぎに会う時は、最後の戦いの時だ。
誰も居なくなった空間に残された影は、丸めた体を細波のように揺らめかす。
時折大きく波打つ姿は、まるで遠くの何かに向かっての手招きのようで、心許ない我が身を嘆くようでもあった。
リグスハバリの北西部を、抉られた土地と銘打つ者が、遙か昔に存在していた。
今では風壁に閉ざされたその向こうに、広大な国が存在するのだと、夢物語の様に書物に書き残した者が居た。
誰も信じなかったが、その書物は今でも何処かの書籍棚に眠っているだろう。
書き残した者は、その地で産まれながら、何らかの事情でその地を離れた者達だった。信じられなかったのは、その地に関しての記憶を、誰もが失ってしまった事。
必死に訴えても、まるで気狂いかの様に周囲から見られ、失意の内に死を迎えた者。祖国に帰ろうと風壁に身を投じた者。決してその数は少なくはなかったが、その事すら誰もが忘れていった。
長い時間を掛けて忘れていった訳ではなく、忘却を条件付けられた結果は、あまりにも陰惨で、一方的な事だと言える。
しかし、もしその事実を人が忘れていなければ、安穏とした平和がこの様に世界を包まなかっただろう。この失われた国との境を、風壁だと信じなかっただろう。
事の当事者達の決断は、無謀な好奇心でこの地に向かう者を、最小限に食い止めたかったからだ。
なのに忘れなかった者達が居た。
それは、忘却を施しながらも、祖国が犠牲となった事実を忘れて欲しくなかった者達の、強い意思の表れだったかも知れない。
恐らく後五日もすればその場所まで辿り着くだろう。
そう須臾が思っている眼前には、風壁が天高くそびえ立っていた。
折り重なる灰色の壁は緩やかに移動している様に見えるが、端がある訳ではない。絶えず動き、壁を形成する霧状の理の力は、見る者全てを圧倒する存在感だった。
――どう見ても風壁だよね。結界や封印の類じゃない。
触れた瞬間その身を食らい付くす壁。それを前に、須臾は何も言わないソルティーに顔を向けた。
「ソルティーあれって」
「あの向こうだ。あれは、風壁だと思わせているだけだ。但し、この辺りだけが見せ掛けで、他は本物の風壁らしいが」
瑞姫達がソルティーの為に剥き出しにした結界と、それを覆い隠す風壁のまやかし。
ソルティーが特定の場所を目指して行動していたのはその為だ。ハバリとシスルを繋ぐ跳躍場所が決まっているのと同じで、最も呪界を造り出しやすいのが此処だけだったのだろう。
「思わせてるだけ」
――どう見ても受ける威圧感は本物なんだけど。それだけの見せ掛けを作り出すなんて、一体どんな奴なんだよ。
灰色の霧の壁は、その向こう側を決して見せてはくれない。もしも不可視の壁であったなら、更に多くの犠牲者が居ただろう。理由を考えれば、確かにソルティーの説明するように、風壁と同じ見た目は最も有効な人除けになる。
だが、それが出来るかどうかはまた別の問題となり、それを知る為にも最後まで付き合わなければならない。
須臾はそれ以上の質問は控え、ソルティーも自分からは何も言い出さなかった。
枯れ果てて倒木した木々を踏み越え、近付いてもその風貌に変化を見せない風壁に向かって淡々と足を運びながら、恒河沙以外全員が違った緊張を深めていった。
――長いなぁ。俺のより関節一つ分以上は長いよな。やっぱ男の手って、こうじゃないとな。うん。かっくいい〜〜。
恒河沙だけはソルティーの手を掴んで、その指を弄って遊ぶのに集中して、なーんにも考えていなかった。
風壁。ソルティーの言う封印を目の前にして、須臾はやっと実感的な恐れをその身に抱いた。
ソルティーの言葉は信じている。しかし何よりもまず、風壁の恐怖はこの世界に生きる者総てが知っている事だ。最早それは、植え付けられていると言っても過言ではない状態だった。それ故に意気込んではみたものの、体の奥から次々と湧き出してくる恐怖に、自然と体が引き下がろうとしてしまう。
距離にして1ダラス程度だが、霧状の壁が何時崩れ、災禍となって自分達に襲いかかるかを考えると、それ以上先に進むには勇気以上の何かが必要だった。
「辞めるか?」
ソルティーは無意識に息を飲む須臾に振り返った。
「冗談……。此処まで来てどうして辞める訳? 行くよ。此処で帰っちゃ男じゃない」
「そうだ須臾! 頑張れ!」
「僕、お前にだけは言われたくないんだよね、そういうの」
世の中の常識を一切気にしない恒河沙に溜息を盛大に吐き出し、須臾は自分の両頬を挟むように強く叩いて、怯んだ気持ちに活を入れる。
「さっ、行きましょっか。そしてさっさと終わらせましょう」
「おう!」
恒河沙が高らかに腕を振り上げ、気合いを現す。
――ほんっと、馬鹿なんだから。
目前に迫った風壁の意味を知ろうともしない恒河沙の脳天気さに、須臾は目眩を感じながらも、その気楽さに救われた。
徐々に迫ってくる風壁を前に、須臾とハーパーの緊張はこれ以上にはならない程高まりを見せた。
風壁に対する恐怖だけに留まらず、自分達がその中に入れるかどうかの疑問が、今もなお解消されていない事からの緊張もあった。無論当初から容易に入れない事は想像していた。しかし魔法に精通しているだけに、結界の法則には知識と理解に長け、それだけに方法は見つかると考えてもいた。
だが眼前に聳える風壁の姿は、そんな二人の考えを吹き消す程だった。
「主、我等は如何すれば……」
「思い切って飛び込んでみるとか」
須臾が乾いた笑いを交えて、する気も起こらない事を口にする。
代わりに足下に落ちていた掌台の石を拾い上げると、徐に風壁に向かって強く投げた。真っ直ぐに投げられた石は、速度を緩めることなく風壁の手前にまで進むと、突然向きを変えて須庚目掛けて戻ってきた。
「うわっ!」
投げた力が倍になって返ってきたようだった。石は猛烈な速度で須庚の頬を掠めるように飛んでいき、彼の言葉を奪ってしまう。
その様子を見たハーパーが、今度は彼の両腕で抱えられるほどの大きな岩を持ち上げ、渾身の力で投げた。
重さの所為だろうか、岩は石の時と同じように途中までは投げられた力に応じた軌道を作って風壁の前まで進んだが、同じ場所で何かに引っ掛かるような動きを見せた。進む力と押し返す力が、一瞬岩を宙に浮かせるという奇妙な現象を見せたものの、やはり結果は同じだ。
しかし今度は弾き返された岩がその力の作用に耐えられなかったのだろう、途中粉々に砕け散って、分散した岩が礫のように飛散した。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい