刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
episode.40
始まりは愉悦。それは一つの存在から生じた物だった。
経過には好奇心。人の世の善悪は其処から条件付けをされた。
終わりは失望。何人もそれを否定する事の叶わぬ事象。
知らぬ間の終わりは、誰に気付かれる事も無く、鉄槌となって振り下ろされた。
愛されなかった世界を愛し、その世界へ降り立つ事を許されなかった者達へ。
それでも世界を見つめている、優しき者達。
名を消され、存在を消された悲しき者達は、今も世界を見つめている。
* * * *
ソルティーの狂いを呼んだ世界。
慧獅はそれを亜空間と呼び、瑞姫は昔それを聞いた時に、呆れ顔で笑い飛ばした。『どこの“漫画”か“アニメ”の設定なんだか』というのが笑った理由だ。
しかし慧獅の表現は的が射ていたのは、この空間がカリスアルの真実の意味においての、もう一つの世界だったからだ。
人の世界の知識では、もう一つの世界は精霊の世界となっている。だがこの二つの世界は元は一つの世界であり、完全な分離にも至っていない。比べてこの亜空間は、カリスアルに寄り添い、または包み込むように存在していた――密閉していると表現した方が適切かも知れない――が、二つの空間に交わる場所は存在しなかった。
形ある全ての物を、無の空間が覆っている。まるで水の上に膜を張る油のように、密接に寄り添いながらも混じり合う事はなく蓋をしていた。
そんな場所が何故存在するのかを、慧獅達も理由を知らない。
ただ確実なのは、人の世界でも精霊の世界でもない、隔絶されたこの狭間の世界。人知では計り知れない無尽蔵に集められた理の力を抱く其処が、瑞姫達が唯一邂逅を許された場所だった。
其処でしか存在する事を許されない者達を前に、瑞姫は疲れ切った顔をしていた。
「もう、どうして上手くいかないのよ!」
肩を落とす彼女の横で、慧獅も晃司も同様に疲れを孕んでいた。中でも慧獅の顔色は最悪な状態だった。
疲労の蓄積から震えだした体は、晃司に支えられている。自力で立てる力まで使い果たしていた。
「だから無理だと言っているだろ。ただでさえも、此方の力の五分の一は結界に奪われているんだ、現物も無しに造り替えるのは不可能だ」
慧獅は額を流れる汗を手の甲で拭い、乱れた息を整える。
「現物なんて……。彼を、物扱いしないでよ……」
直ぐに反論する瑞姫だったが、慧獅に無理をさせた事を悪いと感じているのは事実で、普段の精彩さは形を潜め、慧獅もこの場に及んでからかう真似はしなかった。
「それは悪かった。しかしだ、これで何度試しても同じだって判っただろ。俺達が関われるのは、死んだ奴だけだ。少なくとも、現在の彼奴は死んでいない。彼奴をどうにかしたいなら、全部に決着が付いてからだ」
“そうだ瑞姫。今の我々は次元の異なる存在。事の終結を見る前に、たかが器如きに無駄な力を使う余裕はない”
やせた学者顔の男が、感情を表に出さず辛辣な言葉を放つ。
「ぶっ殺されたいようね、馬鹿野郎」
瑞姫が真っ直ぐに相手を指差し、学者顔の後ろには、二人の同じ顔の女性が現れるや、彼の両腕を掴んで微笑んだ。
“やっちゃいなさい瑞姫”
“おっ、お前達、私は真実を述べたまでだろう”
“そうね。でも幾らなんでも、言って良い事と悪い事が在るわ。さっ瑞姫、さくっといきましょ。さくっと”
二人は美しい静かな笑みを湛えたまま、不穏な事をさらりと言ってのけ、青ざめて抵抗する男の腕を、いとも簡単に抑え込んでいた。
“止めろっ。冗談ではない、この事はお前も判っていた事ではないか”
抑えられる男と同じ顔をした男が声を荒立てるが、二人は顔を見合わせて片手を彼に向けて同時に振った。
“だって、私達瑞姫の味方ですもの。ねぇ”
“ねぇ”
“お前達は毒されている……”
“殺しちゃいましょっか?”
“ええ。さくっと”
“お前達、いい加減遊びは控えろ”
始終黙っていた体格の良い男がやっと口を開き、その言葉によって女性達は癇癪を引き起こしそうな男の腕を放した。
“助かった……”
本気で感じた恐れに体が自然と女性から逃げ腰になる。そんな自分の分身というべき同じ顔を持つもう一人が、より冷静な言葉を告げた。
“瑞姫、実際我々の現状では、鍵なる者の負荷を和らげる事すらままならないのだ。総ては事の終わりを見てから、そこで改めて必要な力を求め直さなければならないだろう。君には不満かも知れないが、これ以上同じ事を繰り返しても同じ結果を見るだけだ”
こちらの学者顔の男は、瑞姫を刺激しない言葉を選んで告げた。
しかし結局言っている内容は変わることなく、結果も同じだ。
“焦る気持ちは我々も理解している。事の終結後は時間が足りぬかも知れないと思えば、今準備を行いたい君の考えも間違ってはいない。しかし瑞姫、我々も決して万能ではないのだ。それを理解して貰えないだろうか”
自らの無力を詫びるように彼は目を伏せ、その姿にいたたまれなくなったのか瑞姫は顔を背けた。
ただどうしても素直には認めたくない気持ちが強く残っている彼女を、体格の良い男が諭しに回る。
“この空間の謎はまだ解明出来ていない。恐らくは父がそれを知っているだろう。君にとっては遠回りかも知れないが、事の解決には、やはり父の事を終わらせてからが、最も早い手段になるだろう”
殊更静かな声を聞かされた瑞姫は、悔しそうな顔を先刻まで自分が見つめていた場所へと向けた。
そこには薄い皮膜のような物に覆われた、黒い影が体を丸めていた。
人の影だ。
肉体を持たない影だけが息を潜めるように存在し、今にも闇の世界に溶け込みそうに揺らいでいる。
――あたしの所為だ……。あたしの所為なのにっ!
影の揺らめきが、瑞姫には苦しんでいるように見えた。
しかし他の者達が言うように、今は何も出来ない事が嫌と言うほど理解出来た。どれだけ拒絶したい気持ちがあっても、認めなければならない現実だった。
「……わかった。でも、本当にこれが終わったら協力してくれる? 真っ先に彼を助けてくれる?」
瑞姫が周りを見渡すと、真っ先に女性二人が頷き、その後に体格の良い男達が頷いた。しかし、学者顔の男達の一人だけが渋い表情を浮かべ、
“さくっと”
耳の側から突然聞こえた言葉に、慌てて首を縦に振った。
“わっ、判った。我等も協力する”
「ならいい。それまで我慢する。慧獅、晃司、無理させちゃってごめん」
「……いいさ。お前の無理は今に始まった事じゃない」
「そんな感じだな。うん、慣れてるから気にするな」
決して皮肉ではない二人の言葉に、瑞姫は照れ笑いで頷いた。
その表情に慧獅の疲れも一瞬で吹っ飛んでしまったのか、自分を依代とする二人の学者顔に向けて話し掛けた。
「時間だ、戻れ」
その言葉に、二人は頷き姿を消した。
「んじゃあ俺も、どうぞ」
晃司が残った男二人に片手を上げると、二人は晃司に歩み寄りその姿を彼に重ねる様に掻き消した。
最後の瑞姫は女性二人に両手を広げ、にっこりと微笑み、
「シェマス、シン、おいで」
“名前呼んで貰ったの久しぶりね”
“ええ、これが最後にならない様にしないと”
「当たり前じゃない」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい