刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
「既に主の目も耳も、その意味を失って居る。見えも聞こえもせぬのに、それを与えられし力で補っているにすぎぬ。それをあの者に覚られてはならぬ。――主は人間ぞ。断じて傀儡などではない。そうであってはならぬ者ぞ」
自分自身に言い聞かせるハーパーの言葉に、須臾も暫く後にしっかりと強く頷いた。
「そうだね、ソルティーは人間だ。今生きている人間なんだ」
――信じなくちゃ。周りの僕達がそう信じなくちゃいけないんだ。
須臾は自然に握り締めた両手の痛みを感じながら、決意を胸に恒河沙と共に歩き出していたソルティーの後ろに続いた。
これから何があっても、誰かという漠然とした者の為ではなく、たった一人の為に命を捨てる決意をした男の総てを見つめる為に、諦める事は出来ない。
――たった二年で終わらせるなんてさせない。これからもっと楽しい事をソルティーに教えたいんだ。それは誰にも邪魔させない!
きつく唇を結び、ただ前を見て歩く。
何があっても、どんな相手だとしても、負ける訳にはいかない。
それが神ではない、ただの人の力だ。
水が一滴落ちる、そんな音がミルナリスを包み込んだ。
まるで水の中に浮かんでいる様なその空間には、緩やかな水の流れさえも感じさせる。
しかしミルナリスを包み込むのは、そんな生易しい感覚ではなかった。
体中から自らの力が吹き出しそうな痛みを伴う感覚を、両腕で自分を抱く事で抑えようとする彼女の前に、優しさと哀れみを浮かべた女性が現れる。
「…ハァ…ハァ……ッ…、す……総て…の、許しを……」
ミルナリスは途切れ途切れになる声を懸命に吐き出し、歪んでしまう体をなんとか形作る。
【満足しましたか? 私の大切な息子を、あの人が奪ってしまう手筈を終わらせて】
静かな物言いだったが、ミルナリスを責め立てる力場に優しさは無い。
ミルナリスは奥歯を噛み締め、必死に耐えた。
「それはっ……オレア…ディス様も……お許しを……」
【いいえ、私は許しません。阿河沙も私も、恒河沙が人であるのを望んでいました】
「阿河沙は主ですっ! クッ……アアッ!」
ミルナリスは突然体を締め付ける何かに、体を反らせ悲鳴を上げた。
オレアディスの空間は彼女そのもの。ミルナリスを責め立てる軋みも、オレアディスが望む事だ。
【阿河沙はあの人とは違う。一人御父様の元へ向かったのも、産まれてくる恒河沙を思っての事。なのに、オロマティスはあの子をそっとさせてはくれなかった】
「でしたら…何故……」
そこまで口にしてまたミルナリスは悲鳴に喉を使う。
髪を振り乱し、苦痛しか与えない空間から飛び出そうにも、オレアディスがそれを許さない。
【あの子はオロマティスに渡さない。御父様を諫める為にあの子が必要であっても、私達の息子をあの人に渡さない】
その言葉にミルナリスは目を見開いた。
「なっ、何をっ!?」
【貴女は貴女の与えられた事をすれば良いのよ。それだけが貴女に与えられた役割】
「オレアディス様っ!」
ミルナリスはオレアディスの思惑を問い質す前に、その体を空間から弾き出された。
【許さない。私から阿河沙を奪った御父様も、恒河沙を奪おうとするオロマティスも、決して許しはしない】
オレアディスは呪いの様な言葉を口にしながら涙を流した。
【恒河沙……許して……】
届かない言葉が青い水の底を悲しみに変えた。
流れ出した涙は止まらず、オレアディスは両手で顔を覆う。
その日、世界中の水が輝きを一瞬失った。
ソルティーの予見した様に、半月もしない内に須臾の跳躍は、宝玉なくしては行えなくなった。勿論ハーパーが飛ぶ事も不可能だ。
それと平行して、ソルティーを襲う妖魔の姿は無くなった。
元来数の少ない妖魔を、今までに倒してきたからなのは容易に想像できたが、それは同時に真っ直ぐ前を見るだけの状況をソルティーに作り出した。
残るは一人。
それが自然とソルティーを緊張させた。
街道沿いの村には、一月間はまだ人が住んでいた。
飢えをなんとか凌ぐ位が精一杯だったが、残り少ない理の力に縋りながら、何時かは元に戻るのを待っている。
しかしそれを待てなかった村人は、次々に南へと下っていった。
ソルティー達が立ち寄った村は、耐えきれなかった者達だけの村だった様だ。
無人の廃墟と化した村の姿は、人が住んでいた頃には随分と賑わっていた過去を忍ばせる。一軒一軒が大きく、数も多い。粗末な建物は見受けられなかっただけに、埃の積もった捨てられた家具が寂しさを引き立てた。
「まあベッドがあるだけましって奴だね」
乾いた土は僅かな風にも砂塵を舞い上がらせるので、野宿をするのも一苦労だった。
須臾は残されていたベッドに積もった埃を払い、自分のマントをその上に掛ける。
「ソルティー達もベッド捜したら? これだけ家があるんだから、捨てていった人もまだいるでしょ」
「休むとは言っていない」
さっさと決断する須臾にソルティーは顔色を曇らせた。
まだ朱陽も高く、村に立ち寄ったのは休むつもりからではない。まだ人が残っているかどうかを知りたかっただけだ。
「一日位良いじゃない。この先ベッドで寝られる所もないかも知れないのに、今の内に堪能しておかないと後悔するよ」
そう言ってから須臾はベッドに寝転がり、直ぐに寝息を立て始めた。
「……ったく」
「どうする、起こそうか?」
恒河沙がソルティーの代わりに須臾を殴る準備を腕を振り回してするが、それはハーパーに止められた。
「主、我も休養を戴きたい。須臾の申す通り、これより先、道沿いに村は在りますまい。充分な休みを取れるのは、此処が最後であろう」
「そうなの?」
「うむ。これより先の道沿いの地域は、以前から農作物育成に些か不適格だった故、開墾の場を多少離れた所に作って居る。それ故に他の村々は、街道から離れて居る」
「……ふーん、んじゃソルティー、寝るとこ探そ」
ハーパーの言葉の最初と最後だけを理解して、早速ソルティーの腕を取った。
一応ハーパーと須臾の協力の所為で、恒河沙の前だけの人のふりは行われている。
食べているふり、寝ているふり。恒河沙の前では口に入れても、須臾が彼の気を逸らしている間に、吐き出す事も良くある事になった。
「行こーよー」
どうやら恒河沙の頭の中は、「ソルティーと一緒」が出来上がっているらしい。ニコニコしながら別の家を捜しに外へと向かう。野宿続きで、しかも寝る時に何時も離されていた分、久しぶりの事に意気込みは半端じゃない。
その外へ向かった恒河沙の体を、ソルティーは簡単に反転させて、寝ている須臾の横に放り投げた。
「お前は此処だ」
「ええ〜〜〜〜」
恒河沙が飛び起きて不満の声を出しても、その頃にはソルティーはハーパーを連れて家を出ていた。
「あらら、逃げられてしまいましたねぇ」
「須臾〜〜」
寝ていなかった須臾は笑いながら体を起こし、後ろから恒河沙に抱き付いた。
「ちゃんと後で押し掛ける口実作って上げるから。大丈夫、ハーパーが居るから、僕達を置いて行かないって」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい