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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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「主は、既に人を捨てたのかも知れぬ。しかしそれでも尚、敵の足元にも及ばぬやも知れない。お主も心せよ、我等の相対する者は、人では太刀打ち出来ぬ者ぞ」
「……うん」
 ハーパーは須臾の返事よりも先にソルティーの後を追う。
 最初から勝利のない戦い。
 それを心に刻みながら前を行くハーパーの後ろに、須臾は緊張を持って続いた。





 ソルティーの足取りに恒河沙が併せられたのは、半日も無かった。歩幅の問題はさることながら、食事も睡眠も必要としない彼に併せられるのは、須臾でも不可能だ。
「食べないの?」
 小走りになりながら恒河沙が干し肉を差し出しても、ソルティーはそれを受け取らないどころか、返事もしなかった。
 ソルティーは恒河沙達の勝手にさせているだけで、行動を共にしている訳ではない。仲良く話をするつもりも無ければ、必要のない事を無理にするつもりも無いのだろう。
 勝手にしろと言いながらも、身体的な差から二日もすれば二人が自分に着いて来られなくなるのは判っていた。
「お腹空くよ」
 一緒に歩き出してから、一度も水すら口にしないソルティーを心配する恒河沙の言葉は、彼には嫌味にしかならない。
 先刻からの恒河沙の言動で、彼が須臾に総てを聞かされて居ないのは承知しているが、だからといってこれ以上体を酷使出来る状態ではなかった。
 昨夜無理をして須臾に自分の身に巣くう狂いを見せた為に、耳は完全に聞こえなくなった。視界も朱陽の明るさで在るにも関わらず、闇に覆われている。今は肉体に付加されている感覚で、何とか見聞きしているだけ。そしてそれが、余計に精神を疲弊させている。
「ソルティー」
「煩いっ、私に話し掛けるなっ!」
 声高に吐き出された言葉に恒河沙は立ち止まった。
 ソルティーは前だけを見て、歯を食いしばって歩き続けた。
「めげないめげない。これ位は覚悟してたでしょ?」
 須臾が恒河沙の肩を叩く。
 二人の脇をすり抜けソルティーに追い付くハーパーを視界に入れながら、須臾は恒河沙を慰める事だけに集中した。


「主……幾ら彼の者達が無理をしているからと、あの様な御言葉は過ぎますぞ」
《もう何も見えないし聞こえない》
 ソルティーは言葉を失うハーパーに顔を向けず、感情を交えずに言葉にする。
《聞こえないのに聞こえる。総ての感覚があの子にだけ向いてしまう。あの子の一挙手一投足にしか心が向かない。聞こえないのに、聞こえた時よりも遙かに大きく胸に突き刺さってくる。見えない筈のあの子の瞳が、ずっと私を見ているんだ》
 心配されればされる程、心が軋みを響かせる。
 聞こえないふりも出来ない位に拾い集めてしまう自分を、ソルティーは御しきれない。
《どうすれば良い。どうすればこの気持ちを抑える事が出来る》
 傷付けたくない、泣かせたくないと思うのは、前と変わりはない。なのに優しく出来ない事が、余計に自分自身を追い詰めてしまう。
 肉体の感覚が失われる度に、鋭くなる感覚。その感覚が、まるで吸い寄せられるかのように恒河沙にしか向けられない事が、自分の感情が自分の物ではないのを物語るようだった。
 自分ではない別の何かが徐々に自分を支配する。そんな感覚だけが大きくなってくる。
 決して恒河沙の所為ではないと判っていても、自分ではない何かに操られるのを拒む思いが、凶悪な牙を作り出してしまいそうにも思う。
《このままでは私があの子を壊してしまう》
《主は何を言って居られるのだ。壊すなどと如何なる理由で……》
 ハーパーの疑問にソルティーは首を振るだけだ。
――狂いそうだ。あの子を護りたいのに、それを望まない私が居るなんて。
 愛などでは決して有り得ない貪欲なうねりが在る。
 それが抑えきれない程、明確な形を持とうとしていた。
 自我のないその力が、同じく自我を待たない力を欲していた。恒河沙が近くに存在するだけで膨らむ解放を求める力は、ソルティーにはどうする事も出来ない。
 恐らくこの力をソルティーに与えた者達ですら、予想もしていなかっただろう。
《主よ、我には理解出来ぬ事で労して居るのか》
 苦悶だけを浮かべる己の主の姿に、ハーパーも心を痛めた。
《我に背負えぬ事なれば、我は聞くまい。しかし、もう良いではないか。己を律する事でそれ程の痛みを感ずるならば、何事で在ろうとも破壊すれば良い》
《出来ない……。出来る筈がない》
《ならば己自身を破壊なされよ。徒に抑制するのみでは、何れ訪れる果ては欺瞞のみ。欺瞞の終末では、成した事総てが欺瞞へと変わりましょうぞ》
 ハーパーはその大きな手をソルティーの頭に乗せ、自分も前だけを見た。
《為す故に成すとするか、成すが為としましょうぞ、決して同じではありますまい。己自身に素直に思う事は、必ずや成す事の礎になりましょう。主自身、今何を一番に願う》
《私は……》
 ハーパーの問い掛けに一瞬だけソルティーの脚が止まった。

――あの子の笑顔だけが欲しかった。

 この世界の事など欠片も浮かんではこなかった。
《今、主が思い浮かべた事こそ、主に必要な事。失ってはならぬ》
 ハーパーはソルティーの頭か肩へと手を移動し、彼を立ち止まらせると、少し離れた二人に振り返った。
「恒河沙、此方に来なさい」
 呼ばれて直ぐに駆け足で来る恒河沙の表情は、まだ少し暗さが残っていた。
「主は少々体調が優れぬ。この様な時に無理に食しては、体の障りになる事もある。故にあまり声高にも話し掛けるでないぞ」
 ハーパーは努めて優しく語りかけてから恒河沙をソルティーの側まで寄せ、自分は須臾の元へと向かった。
「あ、あの、大丈夫?」
 恒河沙は言い付け通り小さな声で、顔を逸らしたままのソルティーに話し掛け、無意識の内に両手を彼の腕に触れさせていた。
 その手を腕を上げる事で避けられ、恒河沙は表情を堅くした。
「大丈夫だから……、心配しないで良い」
 ソルティーは上げた手を恒河沙の頭に乗せ、柔らかな髪の上を滑らせた。
 驚くほどその仕草は以前のように戻ったようで、自然と恒河沙から言葉を奪い取る。ソルティーも暫くは何も語らずに、殆ど消えかけている体の感覚を掻き寄せては、恒河沙の髪の感触を呼び起こそうとしていた。
「食べ物も、水も要らない。心配しなくても大丈夫だから、笑ってくれないか」
「ソルティ……」
「それだけが欲しいんだ」
 戸惑いが伝わる恒河沙の方へ顔を向け、微笑みを見せる。
 それにつられる様に恒河沙は笑顔を見せ、両手を自分の頭に乗っているソルティーの手に触れさせた。
「えへへ…」
 触れた手から、以前と変わらない優しさが伝わる。
 たったそれだけで、恒河沙は嬉しさで一杯になった。
 その二人の様子を遠目で確かめながら、須臾はほっとした。
 須臾の横では、ハーパーが同じように二人を見つめていたが、その目には微かに彼らしくない弱さが浮かんでいた。
「須臾、主はそう長くはないやも知れぬ」
「へ? ……それって」
 ソルティーを見つめたまま動かずに語られた言葉に、須臾は目を見開いた。
「無事、事を終わらせ、主が生き延びたとしても、僅かな時も主は手にする事は出来ぬ」
「そんな…、そんな事って……」