刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
“そうあるべし”に囚われる仮面の下を覗けるのは、同じ仮面を付けながら剥ぎ方を知っている者だろう。ハーパーにはハーパーの、恒河沙には恒河沙の知るソルティーが存在し、だがそれでも届かない場所に手を伸ばせられるのは自分だけだと思う。
「それともあんたはさ、逆の立場なら僕が死にに行くのを黙って見送るわけ? そうじゃないだろ?」
「………」
「だってさ、あんた僕の友達だもん。友達が苦境に立った時に何を擲っても駆け付けるのが、臭いけど友情って奴だろ」
「……だからと言って、お前達に共に来てくれと言える訳がないだろ。私は、お前達に生きて欲しいんだ」
やっと出たソルティーの本音に須臾は笑みを浮かべた。
特有の皮肉さを込めた笑みではなく、眼差しは優しさと憂いを混ぜ合わせた様な、温かみのあるものだ。
「そう、だからソルティーがじゃなくて、僕がなんだ。僕がソルティーの友達だから、一緒に行きたいんだ。命の問題じゃない、僕の中に在る意義の問題なんだ」
「………」
「行ける所まで一緒に行こうよ。もしそれがこの先もずっと続いたら、最高に素敵じゃない。その瞬間を僕はこの目で見たい」
須臾はソルティーの顔を隠す手を掴み、ゆっくりと下へ降ろした。
複雑な思いから唇を噛み締め、苦しげな表情を浮かべるソルティーに、恒河沙を押し出した。
「まあそれが僕個人のソルティーを追い掛ける理由でして、此奴は別だから。――ほら、言いなよ」
「……え……あ……その……」
須臾によって無理矢理ソルティーにぶつかる寸前位まで寄せられ、恒河沙はしどろもどろになってソルティーを見上げた。
自分を見ているのかどうかはっきりしないソルティーの顔の下で、恒河沙は夜目にもはっきりと顔を赤くしていく。今にも湯気が出そうなまでとなり、二度三度と後ろの須臾を振り返る。
だが須庚は自分の話は終わったとばかりに、求められる助けには一切応じない。恒河沙も助言を得られない事に気付くと、意を決してソルティーだけを見つめた。
「あ、あのな……お……俺は……俺……」
あまりの言動のおかしいさに、ソルティーも彼を視界に入れてしまう。
恒河沙は両手の指を胸の前で忙しなく動かし、徐々に真っ赤な顔をその指の方へと向けていった。
「俺…俺は……ソルティ…の…お……お……」
壊れた様に「お」を繰り返す姿に、ソルティーは顔を上げて須臾の方を見ると、彼は横を向いて小さく口笛を吹いていた。しかもいつの間にか随分と場所を移動させている。どう考えても逃げようとしているのは間違いなく、不安を与えるのはそれだけで充分だろう。
二人の行動にソルティーは背筋に冷たいものを感じ、先に視線を下へと向け、その後再び首を動かそうとしたが、
「ソルティーのお嫁さんだし!」
恒河沙が思い切って言った言葉は、静かな夜空に響き、須庚の逃げる方向へと向かおうとしていたソルティーの首は、不自然な角度で止まった。
「須臾がな、俺を貰ってくれたんなら、俺はソルティーのお嫁さんだって言ったんだ。夫婦は一緒に居なくちゃなんないんだって」
わざわざ言われなくても、須臾の入れ知恵以外に恒河沙がこんな事を言う筈が無い。
しかもあの恒河沙が、恋愛さえもまだちゃんと理解していないような彼が、思いっきり恥ずかしがっている所を見ると、他にも色々と説明は受けている様だった。
「……………………」
ギギギギッと音が聞こえそうな、ぎこちない首の動きでソルティーが顔を上げきった時には、須臾の姿は更にハーパーの所まで下がり、声を殺して腹を抱えていた。
「それに俺の帰る所はソルティーの所だし、ソルティーも俺が帰る所だって言ってたし、だからちゃんと一緒に居ないと駄目だから。あと約束破ったら、体中から痛い毛がいっぱい生えて来るって、前に須臾のお婆ちゃんが言ってた。ソルティーは俺といっぱい約束したから、破ると大変なんだからな!」
ソルティーと須臾の間を流れる不思議な空気になど気付く余裕のない恒河沙は、一心不乱に指を折りながら、昨日一日で自分が考え出したソルティーと居る理由を並べ続けた。
「それと、俺が絶対にソルティーの事護るから、いろいろ終わったらいっぱい他の所旅しよ。……あとは、ええっと……、あ、そだ、須臾が俺の保護者はソルティーになってるからって、もうみもこころもソルティーの物になっても良いって。だから、ふつつかものですがすえながくよろしくおねがいします。――で、良かったんだよな?」
教えられた通りに深々と頭を下げた後、正しく言えたかどうか不安になって教えた者を振り返ると、須臾は地面に膝を着いて腕を地面に叩き付けていた。
無論、抱腹絶倒の為である。
「須臾……?」
教えられた通りに話しただけの恒河沙には、何がそんなに可笑しいのか判らない。
止せばいいのに身に付いてしまった習性からか、今度はソルティーの方へと顔を向けたら、全然自分の方は見ていなかった。
「ソルティ……?」
物凄く剣呑としたソルティーの面持ちに、恒河沙はもう一度須臾の方を見た。
やっと周りの空気に気が付いたが、ソルティーの怒りの矛先が須臾に向いているのも、須臾が馬鹿笑いしている理由も皆目見当も付かない。
前知識の無い恒河沙には、今回教えられた事は総てが新しい事だった。だから何を教えられても、それが正しいか間違っているかが判る筈もなく、須庚も都合良くその辺の説明は省いていた。
――なんか……ソルティーが恐い……。
微動だにせず、ただじっと須臾の滑稽な姿を見つめる顔は、怒っているのが判るのに無表情だ。だからこそ余計に恐い。
「ソルティー、俺、変な事言った?」
今までのどきどきとは違うどきどきを感じつつ恒河沙は振り返り、勇気を振り絞る気持ちでソルティーを見上げた。
既に顔の赤みは消えている恒河沙に、ソルティーは視線だけを向ける。
――……うぇ〜〜怒ってるぅ〜〜。
『大丈夫! ソルティーは絶対喜ぶから!』
須臾は胸を張って自信満々に教えてくれたのに、全く違う結果だ。
こんな状態なら、まだ怒鳴られている方が遙かにましで、顔が無意識に引きつりそうになってしまう。
そんな恒河沙の目の前にソルティーの手が上げられれば、ついつい自然と身構えに目が瞑られるのも仕方ない。
しかしその手は、一度だけ恒河沙の頭に乗っただけだった。
「お前は悪くない。しかし、今のは忘れろ」
「……へ?」
目を開けた恒河沙が、今の言葉が優しいのかそうでないのか判断する前に、ソルティーは彼の前から消えていた。
「主っ!?」
ハーパーの声に恒河沙が振り向いた先には、抜き身の剣を片手に須臾を追う姿が見えた。
恒河沙が見る限りは、ソルティーは間断なく須臾に斬り掛かり、それを須臾が青ざめた顔で紙一重で避けている。
一応ソルティーも手加減はしているのか、須臾は髪の先を何度か切り落とされるに留まっていた。しかし、一瞬でも気を抜くと首が飛ぶか、心臓を貫くかの位置を保って繰り出される攻撃には、須臾は一言の軽口も出せなかった。
「お前はどうして余計な事ばかり教える!」
「そっ、それはっ、まあっ、ちょっ」
目の前で空を切り裂く剣先を、顔を引きつらせ避けるが、言い訳を口にする余裕は無かった。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい