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刻の流狼第四部 カリスアル編【完】

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episode.29


 英雄とは、人の造り出した憧れの副産物。
 己が出来ない事に対する尊敬と、羨望が彼の人を造り出す。
 しかしそれは、彼の人へ新たなる欲望を募らせる事に繋がるのではないだろうか。
 助けられ、見せ付けられる力に募るそれは、重なる事は有っても減る事はない。束になり曲がる事も出来なくなったそれは、ただ重く、ひたすらに重く……。
 多くの力無い人々の思いが、たった一人の英雄を葬り去る事など、容易い事かも知れない。


 * * * *


 喋り出したら止まらないジャンタを約束通りに解放した頃には、とうに陽は蒼陽へと移り変わっていた。
 結局一戦交えた場所から少しだけ下ったところで野営となり、薄暗い木立の中で焚き火を囲む事になった。
 ただ、誰からも話らしい話は切り出されず、揺れる炎を黙って見つめるだけ。その中で恒河沙は、ずっとソルティーの腕を放さなかった。
 記憶には無いとは言え、突然自分の父親の名前が挙がった。しかも誰よりも大事なソルティーの敵として。
 ジャンタを何度も問い詰めはしたが、彼が他の名を口にする事はなく、彼の口にした阿河沙の風貌は須臾の記憶の通りだった。背格好や年頃などだけであるなら、似たような者は幾らでも居る。だがこの二つ色の眼が他に幾らでも居るとは、悔しいが言える事では無かった。
――俺、どうなるんだろう……。
 急速に自分の場所が揺らいで、今にも崩れてしまいそうだ。
 心の中では関係ないと答えは出ている。見た事も、話した事も無い相手だ。気にする事はない。しかし恒河沙がそう幾ら思っても、ソルティーがどう考えるのかが問題だった。
 ソルティーの敵が自分の敵だとしても、その敵の子供なのだ。
――ソルティー優しいから……。
 厳しい事を言う時があっても、最後には助けようとしてしまう。それが良い事かどうかは恒河沙には判らないが、それがソルティーの良さだと感じていた。
 だからこそこれから彼が決める事が、酷く恐かった。
『気にしなくても良いから』
 そう言ってくれた彼の優しさに今はどうにか支えられていたが、一番それを気にしているのが彼自身だとは誰にでも判る。
 須臾にしても、こればっかりはどうにも言葉が出ない。
 寧ろ恒河沙よりも阿河沙を知っている分、板挟みだ。
 須臾の記憶の中では、阿河沙は無口・無愛想な男で一見して何を考えているのか皆目見当の付かない相手であった。しかし実際にはとても優しく、とてもゲルクやジェリの様な人成らざる者達を率いる様な男には思えない。
 いや、現実としての今の問題を考えるなら、ソルティーと阿河沙のどちらが正しいのか、になるだろう。
 家族と言う一括りを考えれば、恒河沙と阿河沙が対峙する事は避けたい。
 勝手に家族を捨てて姿を消した男に、大事な“弟”の父親面をされたくない気持ちもあるが、さりとて戦わせられるかどうかは別問題だ。
 どこか自分達の知らない場所で、勝手にソルティーと阿河沙が戦ってくれれば御の字だが、そうなると恒河沙はソルティーと離れなければならない。
 今はまだソルティーを信じたい。彼と自分の感じる正義は違えども、彼の真剣さと過去への憤りは否定したくないと思っている。だが彼の正義と自分の正義が全く正反対であり、仮に阿河沙側により多くの真実があるとしたなら、無理にでも恒河沙を彼から引き離して、最悪の場合は敵としなければならないだろう。
――嫌だなぁ……。
 せめてあと少し阿河沙に関する情報が欲しい所だが、唯一の情報源だったジャンタも阿河沙が何者であるかまでは知らなかった。
 強い者と己の欲に従うのが妖魔でしかなく、妖魔達は阿河沙を強き者と捉え従う事で利用しているに過ぎず、そこに素性は一切関係ない。
 ただ『妖魔達を呼び出したのは阿河沙』だと言う事だけが、彼等の事実だった。
 過去の記憶を幾ら探っても、恒河沙の母親であるイェツリですら阿河沙の事をどれ程も須臾に語っていなかった。――と言うか、知らないと言ったのだ、彼女は。
 偶然に巡り会った男が何者か知らずに恋に落ち、彼女はその男を夫にして、人として子供を宿した。

 そして本来の世界に戻った。
 人の生を終え、精霊に還った

 イェツリとオレアディスは別の存在だった。あくまでも彼女は人として生き、人として死んだ。
 イェツリとしての彼女に特別な力はなく、恐らく本当に何も知らずにいたのは事実だろう。
 しかし今は……。
――オレアディスには会いたくないんだけどなぁ。
 須臾が好きだったのは人としてのイェツリで、オレアディスを信仰していても、それは好きとは言わない。
 だから迷う。
 神として見通す何かの力を持つ彼女の口から、聞きたくない言葉を聞かされるのではないかと。そう思うと、どうしても二の足を踏みたくなる自分を隠せない。
「……ハァ」
 須臾は溜息を吐き出しながら、一人落ち着き払っているミルナリスを一瞬だけ見た。
――何か知っているんだろうな……。
 ミルナリスがシャリノ達の隠れ家で阿河沙の事を持ち出さなければ、須臾は彼の事を思い出しもしなかった。
 確かに恒河沙と阿河沙の双方を知っていれば、二人の持つ眼がある限り、少なからず関係を探りたくもなるだろう。しかしそれがミルナリスであるならば、意図的な何かを感じずにはいられない。
 無論問い掛けて素直に答えてくれる相手でない事は、これまでの旅の中で理解させられてきた。
――ああ言う所が共通点だよな。
 嘘を言わない為に隠す行為はソルティーと同じだ。
 ただしそうした行為でも、人と精霊は違う。彼は言わなければならない事かどうかを選び、彼女は言えないから口を閉ざしている。
 精霊は人の見えないモノを見る事が出来る。もし仮にその人では見えないモノを人に答えれば、多くの者達は本来の道を踏み外すだろう。精霊が自ら進んで人に力を貸し与えないのは、それが理だからに他ならず、その理を踏み外す事は精霊の存在その物を否定する事になるのだから。
 だからこそミルナリスがソルティーと行動を共にしている事には、大きな意味があるはずだった。だが聞いてもその答えは得られるはずもない。
 ソルティーを見る限り、彼自身もこの事に驚いている。
 ならば彼女は彼にさえも、彼女の真実を語っていないのだろう。
――気に入らないな。
 誰かの手の上で踊らされている事が目に見えているのに、どうにかする力が無い自分達が腹立たしい。その誰かを知っている者に、力が無い為に何も言えないのが更に口惜しい。
 どうにかならないかと須臾は頭を抱え込んだが、結局良い提案なんか一つも浮かばなかった。


 ソルティーの知る事実は、瑞姫達がもたらした知識と、そこから導き出される憶測だった。
 現実的にソルティーが敵とするシルヴァステルを見た事は、彼自身一度も無かった。しかも瑞姫の話では、形すら持たないただ有るだけの存在だった。
 膨大な力と言う存在がソルティーの、そして瑞姫達“命”と“力”の敵だった。
 それが一転して、人という形を持った。
 しかも恒河沙の父親。
 真偽、真意共に定かではないにしろ、迷い無くとは言い難い。