刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
『“我が戒めは、其の誓いにより鎖を解く刻を持つ。我が盾と我が剣に施されし盟約は、この刻を持ち、我が名須臾と恒河沙に永劫へと帰す事を此処に記す”』
神聖な言葉を苛立たせながら口にすると、記されたときと同じように、須臾の手の下で封呪石は砕け、書き込まれていた文字が消えた。
「これで、名実共に僕達の契約は無効になりました。何か質問でも在りますか、元ご主人様」
「無い」
かわいげのない即答に、須臾は白紙に戻った羊皮紙を握り締めた。
「いい加減に少しは素直に話したらどうなんだよ!」
感情など捨て去ったと言わんばかりのソルティーに、くしゃくしゃに丸められた羊皮紙が投げ捨てられる。
恒河沙を諭したとは言え、感情を押し殺せない程の怒りは、まだ須庚の全身に燻っていた。
「自分一人判ったふりして、僕達の記憶はこんな契約書みたいに消えないんだ。あんたの生き死にが、僕達に関係ないと思ったら大間違いだっ!」
「………」
ソルティーは自分の胸に当たって落ちた効力を失った契約書を拾い、机の上に置いた。須庚の目には、そうした姿さえも冷静を無理に装っている馬鹿げた姿に他ならない。
「そうやって、最後まであいつになんにも言わないつもりかよ、それで消えるのかよ。あんたの死に方を、彼奴に見せてやってくれって言ったのに」
「どうやって見せるんだ、何を言って何が変わるんだ。どんな理由を口にした所で、結果は同じだ。二人を連れては行けない事も、時間が限られた事も、私が死ぬ事実も、総ては同じ事の筈だ」
何の発露も感じさせない淡々とした口調に、須臾は殴りそうになるのをぐっと堪えた。
「それに、今日言った事は事実だ。恒河沙が居ると差し障る」
ソルティーは行き場を求める須臾の拳を視界に入れながらも、一貫して彼の欲しがる言葉を口にしなかった。
泣き言の一つでも言えば、須臾の気は納まるかも知れない。
しかし一度でも言葉にすると、総てを吐き出してしまいそうで、浮かんでくる言葉の総てを捨て去った。
「あいつには聞かせられない言葉だね。また泣いてしまう」
諦めた様な須臾の呟きに、ほんの僅かだがソルティーの指先が動いた。
「判った。これ以上問い詰めても、あんたからましな言葉を聞けそうにない。金貰ってとっとと帰るさ」
「そうしてくれ」
ソルティーの吐き出す言葉を背に、須臾はベッドに置かれた袋に向かった。
丁度2000ソリッドずつに分けられた袋の内一つの中身をだし、手早く数え自分の提示した額だけを一つに纏めた。
――これが二年間の重みって奴かよ。……軽すぎるよ。
「じゃあ、短いのか長いのか判らない間だったけど、御世話になりました」
「ああ」
ソルティーは、扉を開ける直前に一度だけ此方を一瞥した須臾に小さく頷き、叩き付ける様に閉じられた音を聞いた。
そうなる様にし向けたとは言え、呆気ないと言えば呆気ない終わりに、自然と溜息が零れた。
「怒られるのは無理ないな」
自嘲しながらそう言葉にし、徐に髪を掻き上げた。
そしてその手を、渾身の力で机に叩き落とした。
「誰が消したいものかっ!」
自分にとってこの二年がどれだけ大切な記憶なのか、判っているからこそ決断した。
出来る事と出来ない事の区別が判っているから、無理を押し通す為の無理は出来なかった。
判ったふりをしている訳ではなく、須臾や恒河沙の様に希望を現実に叶えられると、信じ切れなかったのだ。
須臾によって眼前に突き付けられた自分の弱さに歯を食いしばり、もう一度自分の手を机に叩き付けた。しかし、その手からは何の痛みも伝えられず、このまま心の痛みすら消え去ってしまえば良いと願う。
たった一つだけ、自分が事を終える為に必要な記憶さえ残っていれば、それで充分だった。
小さな宿には入れなかったハーパーがソルティーに話を聞かされたのは、須臾が契約解除を行ってから数時間してからだった。
まだ蒼陽も沈んでいない淡い光の支配する中、旅支度を済ませたソルティーは、ハーパーを起こすと直ぐに歩き出した。
「真に宜しいのか」
何もかもがハーパーには突然だったが、彼が口にしたのはこの一言だけだった。
「何を言っても納得はして貰えない。下手に説得するよりも、嫌われた方がましだ」
須臾には端から見透かされていると判っていても、そう言い切るしか思いを断ち切る術がなかった。
すっきりとした気持ちの整理は不可能でも、大切な者達を生きて帰れる保証のない場所に連れて行くよりは、残す未練は違ってくるだろう。
ソルティーなりの責任の取り方にハーパーは何も言わない。
確かに一時は望んでいた恒河沙達との別れだった筈が、どうしてか素直に喜べなかった。
――しかし、主が決断を下した事。我には何も言えぬ。
人通りのない道を歩きながら、間近に迫った街を囲む外壁を見つめ、一度だけソルティーの代わりに後ろを振り返る。
明かりを灯さない街灯だけが立ち並ぶ後ろの道には、僅かな人の気配もない。
――真、良かったのだろうか。
前に向き直り、ソルティーの背中を視界に入れる。
どことなく何かが足りない気がするのを、ハーパーは考えないようにした。
この先、もしかするとハーパーでさえも進めなくなるかも知れない。その事だけを考え、そうなった時の決断だけを今から思い浮かべた。
ゆらゆらと一定しない空間の歪みに、ミルナリスはその身を漂わせていた。
酷く疲れ切った表情で、彼女自身も何処か不安定だ。
そのミルナリスの前には、彼女の掌に乗るくらいの小さな光が浮いているが、こちらもどこか頼りなげな光を放つだけで、今にも消えてしまいそうだった。
「少しは、ご理解戴けたでしょうか……」
ミルナリスは光に向かって控えめな声で語りかける。
【ええ……】
光が微かに揺れながら音のない言葉を放つ。
光が揺れると同時にミルナリスを包む空間の揺らめきは酷くなり、彼女は苦悶の表情を浮かべた。
「では……、来る日……お力を…お貸し戴けますか……」
気を抜けば霧散してしまいそうになる体を精一杯留め、光に対して最後の問い掛けをする声にも、普段の破棄は微塵も含まれていない。
【リーリアンの子の為に、最大限の力を約束しましょう】
「ありがとう…ございます……サティロス様…」
ミルナリスはなんとかその言葉を振り絞り、そして頭を下げると同時にその身を揺らめきの中から消した。
幾ら精霊としての力が強いミルナリスでもあっても、対立する精霊神の前にその身を直に晒した彼女が、長い時を何の条件付けもなく過ごせる筈がない。
不法侵入者である彼女に対して、サティロスは話を聞きながらも手は抜かなかった。
それが場を持つ者の掟だ。
ミルナリスがその身を不変的に安定させる事が出来るのは、一般的な精神世界と彼女の主の空間か、元主の空間だけ。気を抜けば自らの均衡を崩してしまう。それは理の力のみで成り立つ彼女達には、死を意味する。
その危険を冒しても彼女は、ある事を成そうとしていた。
たった一人で、たった一人の者の為に。
ミルナリスが消えた空間では光が変化を始めた。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい