刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
「我慢してどうこう出来ると本当に思っているのか。途中で食料が尽きたらどうするつもりだ。帰る事も出来ない状態になるのが判らないのか。幕巌からお前達を預かった手前からも、彼に受けた義理をお前達を無事にシスルに帰す事で報いなければならない」
ソルティーの言葉に、次第に青ざめていく恒河沙を救う言葉は一切無い。
須臾もその言葉が事実だからこそ口を挟めなかった。
「それに何より、お前のように気楽にばかり考えられては、これから私のする事に支障が生じる。此処から先に、二人は必要ない」
「…ひつ…よう……ないって、俺が……?」
「ああ、邪魔だ」
淀みなく言い放たれた最後の言葉に、恒河沙は目を見開いたまま、ぼろぼろと頬を流れていく涙の感触を、どこか遠くで感じていた。
暫く自分が泣いている事にも気が付かず、気付いてから体が震えだし、全身の感覚が消えていくのを感じた。
「…そつき……嘘つき…」
恒河沙は噛み合わない歯の根を抱えて俯き、嗚咽を堪えながら言葉を吐きだした。
「ずっと一緒に居るって、約束したのに…。ソルティーの嘘つき……」
「………」
「嘘つきっ!!」
どうしようもない気持ちに揺すぶられるまま、渾身の力で声を張り上げた恒河沙は、ソルティーの前から逃げる様に部屋から飛び出した。
その背中を須庚は一度は追い掛けようと体を動かすが、思い止まるように舌打ちをして、開け放たれた扉を閉める。
「誉めてあげようか?」
「何をだ」
「あいつを顔色一つ変えずに泣かせた事だよ」
須臾は他に言いようが無かった事を知りつつ辛辣に言い放ち、ソルティーは深い溜息と友に両手で顔を覆った。
「本当の事を言ったまでだ。この先、二人が進める場所ではない。須臾も判っているから何も言わなかったのだろ」
「そうだけどね、気に入らないのは、また一人で勝手に決めた事だよ。ただ連れていきたくなかっただけのくせに、ご立派な理由を用意している所だっ!」
扉を殴りつけ、一欠片の後悔も口にしない相手を睨み付ける。
確かにこの先に人の住む場所はない。しかしこちらには、短時間で街を行き来出来るハーパーが居る。その彼を持ち出そうとしなかった。
しかし、須臾の言葉にソルティーは両手を降ろして首を振った。
「この先、ハーパーは飛べなくなる」
確信を持った言葉に、須臾は表情を一転させた。
「竜族があの巨体を翼だけでは支えられない。風の力を得て、やっとその身を空へと放てる。この先の地には、その風を運ぶ精霊が存在しない」
大地が枯渇しているのは、作物を育てる総ての精霊が存在していない事を示唆する。
竜族は、己の身を軽くして飛び立てる鳥とは違う。あの有り余る巨体を支えるだけの翼を有する術は無く、精霊の加護が無ければ飛び立つ事は不可能だ。
「須臾の言う立派な理由など無い。私には他の手だてが無いだけだ」
「……嘘だろ…」
「直接お前に使役している精霊に聞いても構わない。その方が早いだろう。恐らくこの先半月もすれば、ハーパーの呼べる精霊はその地に存在しなくなる筈だ。そしてその頃には、人の住む村は無くなる」
あくまでも予測を打ち立てての話だったが、ソルティーのこの手の類の予測は、言われるまま精霊を呼び出すよりも正確だ。
「そんな場所に、どうやってお前たちを連れて行ける? 私やハーパーは何も食べずに行けるが、お前たちはどうする。騙し騙しに進んでも、直ぐに底を見るのは判りきっているのに、無理に連れて行ける筈が無いだろ。雇い主の私が出来るのは、二人が安全に帰られる時にそうする事だけだ」
須臾は雇う側の責任を口にするソルティーに、言い返すだけの材料が無かった。
怒りは確かにまだ胸の内で燻ってはいるが、雇われた側の言い分は彼の言葉に頷くしかない。
過去に何度となく此方側の言い分で解約を逃れてきた。言い訳する材料も、それを許すソルティーの余裕も在った結果からだ。
――駄目だ、捜さないと……。
須臾には更々この話を飲むつもりは無かったが、突き付けられた現状はそれを容易に許すものでは無かった。
「契約は今日までだ。先刻も言った通り、帰りに掛かる分も一切払うから、今日中に割り出してくれないか」
「……判った」
言いたくもない言葉を小さく吐きだした後、須臾は歯を食いしばった。
――何納得してんだよ僕は。此奴はまた一人で背負い込んでるんだぞ。
「なら、話は終わりだ」
ソルティーは最後まで視線を逸らさず、須臾が黙って部屋を出るのを見送った。
肩を落とした須臾に静かに閉じられた扉を見つめ、堪えていた息を吐き出すと同時に、力の入らない体を壁に添わせて崩れさせる。
「……しっかりするんだ、今が別れじゃない。今日一日耐えるんだ」
自分自身に言い聞かせる言葉を吐きだし、浮かんでくる恒河沙の顔を振り払う。
「決めたのは私だろ、後悔してどうなるんだ」
震えだした体を抑える様に両腕で自分を抱き締め、そのまま蹲って壊れそうな心の悲鳴を、ソルティーはじっと聞き続けた。
須臾は部屋を出た後、階段に座っていた恒河沙を見付け、その隣に腰を下ろした。
膝に顔を埋め、喉を突く嗚咽を止められない彼の髪を撫でる。
「今日だけだよ。もう今日しか無いよ。泣いてる時間は無いんじゃないかな」
言いだした方も、言われた方も傷付く結果しかなかった事に、慰めにもならない言葉しか浮かばない。
恒河沙を引き離す為には、辛い言葉を口にしなければならなかった。嘘だと思われない様に、感情を押し殺さなければならなかった。
ソルティーの本心は須臾には嫌なほど理解出来た。
「泣いてても、何にもならないだろ?」
「……ッ…や…約束…したのに、…ッ…必要…ッ…ない…って…」
恒河沙はしゃくり上げながら声に出し、そして自分の言った言葉に、また言葉を詰まらせた。
何も知らない恒河沙には、ソルティーの言葉は総てが真実だ。
須臾の様に隠そうとした真実を気付けるだけの情報を持ってはいない。ソルティーに突き付けられたのは、足手まといになる自分の情けなさだけだった。
――嫌なのに…、嫌なのに、一緒に居たいのに。居なきゃいけないのに。
ハーパーやミルナリスと約束した。何度となくソルティーとも約束した筈が、その本人からの言葉を拒絶出来ない。
いや、それ以上に、引き離される事に対する心が猛烈な痛みを放っているのが、止まらない涙の最も大きな理由だった。
須臾は泣き止む気配すら見せない恒河沙から手を引き、表情を堅くした。
「お前、このままソルティー行かせると、もう二度と会えないよ。それでも良いの?」
すかさず恒河沙が小さく首を振るのを見て、須臾は心を決めた。
「あいつ死ぬ気だよ」
両手を強く握り締め、言わないで欲しいと頼まれていた事を口にする。
その言葉に恒河沙の肩が大きく震え、顔が上げられた。
「此処で待ってても、あいつは帰ってこない。死にに行くつもりなんだからさ」
「ど…して…」
「馬鹿だから。お前と一緒で、ほんとに大馬鹿だから、自分一人の犠牲でどうにかなるとか本気で考えてんだよ」
驚きのあまり涙の止まった恒河沙の腕を掴み、考えなしに動こうとする体を封じる須庚の力は強い。
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい