刻の流狼第四部 カリスアル編【完】
「あのな……すっごく今更なんだけど、何処行くの?」
「………」
「だんだん人居なくなってくるし、みんな下の方に行った方が良いって言うし。……須臾は知ってるんだろ? 知らないの俺だけだ……」
場所が場所なだけに、恒河沙の知る須臾が自分達の行き先を一切口にしないのは、彼が何もかもを承知している証になる。
今までは須臾さえ理解し、判断していればそれは絶対に間違いではないと信じて、どこにでも着いてこられた。だが今は、ソルティーが須臾にだけ話しているのが嫌だった。
「なあ、これも俺が聞いちゃいけない事?」
きっと様々な不安を抱えている中で、恒河沙なりに精一杯我慢して一つに絞った質問に、ソルティーは少し考えてから首を横に振った。
「今目指しているリグスの端に、私の国が在る。正確には在っただが、其処に私の仇が居る」
「……親父が?」
「違うよ。断じて違う、私の仇は阿河沙じゃない。今はまだ誰かは言えないが……。それでも其処に、先にお前の父親が行ったのだけは、間違いなく事実なんだろう。勿論その理由は判らないし、もし生きているなら、私と敵対するのかも知れない。だからそれを知る為にも、私は行かなければならない」
賢しさから真実へ辿り着いてしまう須庚と違い、恒河沙は感覚だけだ。
しかしその感覚は、時として須庚よりも鋭く物事を見つめ、踏み出す際には躊躇いがない。
何よりソルティーの動揺を直ぐに感じ取ってしまう彼に、慎重に言葉を選んで話をしていった。
「だけど、上の方はもう人居ないとか誰か言ってた。本当に居るのか?」
「ああ、そうだな。だけど其処に居る。誰も居なくなっても、私の仇だけは」
恒河沙は聞かされる寂しさを含んだ言葉に表情を曇らし、ソルティーはそんな彼の顔を見たくなくて、両腕でそっと彼を抱き締めた。
「ああ。もう帰る国が、故郷が無いんだ。国へ行っても、家も、家族も誰も居ない。誰も私を待っている人は居ない」
「ソルティ……、俺、居るよ。ずっとソルティーと一緒に居るよ」
「……なら、恒河沙が私の帰る場所だ。そう思っても構わないか?」
「うん、嬉しい。俺もな、ソルティーが俺の帰る所だから」
恒河沙はギュッと回していた腕に力を入れた。
その腕の心地よさを感じながら、ソルティーはある決断を下し始めていた。
――矢張り連れていけない。何がきっかけになるのか判らない。私の力だけでは、冥神を阻止できない。
彼と離れる事を考えるだけで、身を切られる以上の辛さを感じているのは、誤魔化しの通用しない事実だ。
自分がこれ程まで誰かを必要とする時が再び訪れるとは、真実考えていなかった。恒河沙だけでなく、須庚や、無論ハーパーとも別れたくない。もっと長く、この先何時までも共に度が出来ればと、そう願わずにはいられない程に。
それでもソルティーには、硬い決意を胸に忍ばさなければならない自分から、結局は目を背ける事が出来なかった。
目の前で恒河沙が変わるのを見るよりは、腕の中にある温もりに馳せる想いを、自分自身の手で切り刻む方がましだと思ったのだ。
そして何よりも、自分の嘘を知られたくなかった。
「恒河沙、私も一つだけ聞いて良いか?」
ソルティーは心を落ち着かせ、普通を装い、恒河沙を自分の方へ向かせた。
「どうして私の傍に居たいと思った?」
「どうして? ソルティーが好きだからに決まってるだろ」
実に明快に恒河沙は答えを出す。
まるでそんな質問自体が無意味であるかのように、彼は自信に満ち溢れた表情を浮かべ、輝くような笑みは褒めてと言わんばかりだ。
ただし恒河沙にとってはそれが変わるはずのない答えであっても、ソルティーはゆっくりと首を横に振って「違う」と言った。
「何故お前は私を好きになった?」
「へ……? なんでって……そんなの……」
聞き返されてしまった事で、急に恒河沙は迷いを浮かべてしまう。
「須庚のように優しくしたからか? 幕巌のように信頼を置いたからか? 顔や声、それともこの姿の他のどこかか? 前に名前を交換した時が最初だとお前は言ったが、それが本当にきっかけだったのか?」
「ソルティ……」
「お前が言っているのは、ただ好きだと感じているからそれを言ってるからだろ。私はお前が笑った顔が好きだ、物怖じせずにハッキリ話して、そして真っ直ぐに見つめてくるお前が、何よりも好きだ。そんなお前だから好きになった、だからお前の他の部分も好きになっていった。お前はどうなんだ? 私はそれが今聞きたい、お前は私に何を感じてるんだ?」
ソルティーは矢継ぎ早に言葉を放っていったが、どれも決して難しい言葉ではなく、恒河沙も何を言われているのか、聞かれているのかは判っていた。
無論恋愛の感情など人それぞれであり、嘗て踊り子のミルナリスが語ったように、一瞬で高まる想いもあれば、小さな感情を積み重ねていく事で気付く想いもある。恒河沙にしても、ソルティーと言う存在の様々な姿を見て、少しずつ好きになる要素が増えていったと言う事は出来ただろう。
にもかかわらず、彼の表情は急速に曇りを帯び、迷いは戸惑いに、戸惑いは苦しさへと、浮かべる意味を変えていった。
「なんで……俺、最初からソルティーのこと好きなのに……」
結局言えたのはそれだけだった。けれど偽りの無い気持ちのままに言った。
少なくとも恒河沙は、“今は”そう感じている。出会った頃には確かにあった、反発的な何かを忘れ、ソルティーを必要とするまでにあった筈の様々な感情さえも無かった事のように、彼は“最初から”ソルティーを好きで必要だと感じていた事になっているのだ。
――やはり、理由など必要ないのだな……。
決して恒河沙が悪いわけではない。“何故彼でなければならなかったのか”を突き詰めて考えた時には、ソルティー自身にも自分の意思とは違う力を感じる事があったのも事実だ。
けれどそれは恒河沙に比べれば小さな物だ。
抵抗して引き離す事の出来る力であり、ここまで彼を連れてきたのは、弱さを含めた自分の意思に依る決定だと言い切れる。
だからこそ恒河沙の想いの変質を目の当たりにして、確かにあった決意が砕けていく音を聞く事となった。
「ソルティーはソルティーだろぉ。俺……俺ぇ……どこかなんて……、ソルティーだから俺は……」
問われるまで、一度も考えた事は無い。どうして好きになったか、どこが好きになったのかを考えるまでもない、自分に最も必要だと感じている事こそが重要で、その気持ちに名を付けるなら“好き”だと思っただけだ。
他に何か別の言葉が当て嵌まるならそれで良い。須庚でも他の誰でもなく、ソルティーと言う存在その物だけに相応しい言葉があるなら、一つの言葉に拘ってもいない。
ただ恒河沙は他に言葉を知らず、嘗ては言えた筈の“ここが好き”を、もう言えなくなっていた。
それでもソルティーの疑問に答えを出したい一心からか、泣きそうになりながらも答えを探そうとするものの、『ソルティーだから』としか口に出来ずに、時間ばかりが過ぎていった。
「ごめん、変な事を聞いて。つい気にしすぎて、意地になったみたいだ」
「だけど……俺……」
作品名:刻の流狼第四部 カリスアル編【完】 作家名:へぐい