刻の流狼第三部 刻の流狼編
「しない……。絶対にしない。ソルティーとだったら、どんな事しても後悔なんかしない」
初めて、恒河沙の言葉に含みが感じられた。
普通なら後悔する様な事だとしても、敢えてそれをして欲しいと。自分にだけにと。
「恒……」
――駄目だな。とても逃げられそうにない。
出会った時は、不信感も露わに睨んできた勝ち気な瞳。
信じているのも必要としているのも一人だけで、自分は映されていなかった。
それはそれで良かった。羨ましいと感じた時があっても、それは彼に対してではなかった。
それがいつの間にか、視線が自分にも向けられるようになって、少しずつ変化して行くのを感じた。
笑ったり、怒ったり、泣いたり。目まぐるしく変化する彼に、いつの間にか目が離せなくなっていた。
言い訳など幾らでもある。……ある筈だった。今の自分の気持ちさえ否定出来れば……。
「ソルティ……」
拒絶すれば、今にも泣き出しそうな顔が、本当にまた涙を流してしまう。
泣かれるのが嫌ではなく、彼にだけは泣いて欲しくない。
――これも、言い訳にすぎないか。
真っ直ぐに自分だけを見つめている瞳から逃げられない理由は、もうただ一つしか浮かんでこなかった。
「だったら、目を閉じて、少しだけ口を開いて」
ソルティーは、言われた通りに薄く唇を開く恒河沙の顎に指を当て、角度を併せて、ゆっくりと自分の唇を重ねた。
触れ合わせるのではなく、重ねた唇の感触を確かめる様に何度も啄み、僅かに緊張しながらも開かれた唇の隙間に舌を差し入れる。突然入ってきた“何か”に肩を震わす彼を逃がさない様に、ソルティーの両手は片方が腰に、もう片方が首の後ろに回された。
「……んっ」
ミルナリスよりも長く、より深く、二人の唇は重ね合わされた。
産まれて初めての行為に、自然と恒河沙の指がソルティーの服に掴まり、次第に彼の背中に回されていく。
口の中を何かに探られるのは気持ち悪さではなく、くすぐったさだけだ。不思議なのは少しずつ体が熱くなって、時間が経つ毎に離れたくないと思う事。
「…ソル……」
角度を変える度に呼ばれる名を途中で遮り、熱を上げていく。
薄目を開けると目の前にソルティーが居て、それが本当に安心を感じさせてくれる。
くすぐったい様な痺れる様な感触が、徐々に恒河沙の思考を溶かしていき、それはソルティーにも伝染した。
コク…と、恒河沙の喉が何かを飲み込むのが伝わると、本当に初めてだと感じる何かが背中を駆け上がった。
「…好きだよ、お前が誰よりも」
「ソルティ…俺も、ん――」
熱に惚けていた顔に、満面の笑顔が浮かぶ。
ずっと見ていたい気持ちと、もっと触れていたい気持ちが同時に感じられ、また唇を重ねた。
時間も忘れて、たった一つの事を繰り返し、
「ソルティー、話がある!」
そう、こんな声も届かなかった。
少し前、気が付けば居間のソファーの上で横になっていた須臾は、飛び起きた瞬間、自分が何処で何をしているのか理解出来なかった。
しかし、そこが居間だと気が付き、部屋に恒河沙が居ない事に慌てて応接間に駆け込んで、見てしまった。
この時点で再び気絶でもしていれば、これは夢だと思う事も出来たか知れないが、今度ばかりは気絶もそう易々出来ない位に、人生最大の衝撃だったのだ。
『貴様俺の弟に何してやがるっ!!』
殺意と怨念を込めまくった須臾の叫びで、漸く二人は彼の存在に気付いた。
「須臾っ?!」
『恒河沙っ、そこをどけっ! 髪の先まで分解してやるっ!!』
今にも髪を逆立てそうな勢いで、右手に凝縮した力を携える須臾に、ソルティーは既に観念していた。
『あれだけ手を出すなって言ったのに、分解するだけじゃ気が納まらねえっ! 骨の髄まで、いやっ、魂の欠片まで残さず破壊して、二度と生まれ変われねえ様にしてやらるっ!!!』
「止めろよ!」
『お前は黙ってろっ! 此奴だけは許せないっ! 何がそんな趣味はないだっ、やっぱりありありじゃねえかっ!! お前はどいて、此奴の死に様でも見ていろっ!!』
怒りに支配された須臾の言葉はシスルの物へと戻り、言葉遣いさえも変わりきっていた。
そうして腕を横に振り払って見せ、ソルティーにしがみついたままの恒河沙に退去を命じた。
しかし恒河沙は、その言葉に思いっきり首を振って、更にしがみつく腕に力を入れる。
「やだっ! 俺が頼んだんだっ、俺が無理にソルティーにしてって頼んだんだ!」
須臾が本気なのは判っているから、絶対に腕を放す事は出来ない。
恒河沙の為なら須臾は平気で人を殺せる。今までずっとそうだった。だから彼の容赦のなさは一番理解している。
その彼を止められるのも自分しか居ない事も。
「ソルティーは悪くない、悪いのは全部俺なんだ。だから怒るんだったら俺にしろよっ!!」
恒河沙はソルティーを護る様に、真っ向から須臾を睨み返し、須臾は怒りに全身を震わせた。
『お前はどうしてそんなに、此奴に肩入れするんだっ。仕事が終われば用無しになるんだぞ、それまでの暇潰しかも知れないんだぞっ!!』
そうなれば須臾の目の前で一番見たくない事態になる。
恒河沙の気持ちは知っていて、出来るなら協力もしたいし、そうしてきた。しかし、いざそれを目の当たりにすると、どうしても押し殺せない怒りが体を駆け巡る。
傷付けると判っていて手を出したソルティーが、どうしても許せない。
そんな殺意を漲らせる須臾に恒河沙が出した答えは、総てを肯定する、誰も予想していなかった叫びだった。
「そんなの初めっから判ってるっ!」
恒河沙の叫びに須臾とソルティーは目を瞬かせた。
「俺だって判ってるよ! でも、だからそれまではソルティーと居たいんじゃないか。ちょっとでも長く居たいんだ。仕事が終わって、俺の役目が終わって、俺が必要じゃなくなるなら、それまで出来るだけ傍に居たいんだ!!」
どうせ終わるならと諦めるよりも、それまでの時間を出来る限り一緒に過ごしたい。
全部理解した上で、恒河沙はそれを選んだ。たとえそれがどれだけ辛い別れに繋がるかも知っていての選択を、誰に教えられるでなく知った上でそれを選んでいた。
「俺がソルティーを好きなんだ。仕事が終わるまででいいから、傍にいさせてよ」
「恒河沙……」
ソルティーは堪えきれず泣き出した恒河沙の頭を抱き寄せ、髪に口付ける。
「お前が必要でなくなるなんて、無いよ」
出来る限り優しく語る。残された短い時を総て捧げるつもりの、偽りのない言葉を。
「だから泣くな」
喜ぶ顔だけが見たかった。必ず最後の時に、泣かせてしまうのが判りきっていたから、それまでは泣き顔なんて見たくない。
何度も髪に口付けを繰り返し、なかなか止まらない涙を唇で拭う。
それで安心を恒河沙に与えられるなら、何度でもどんな事でも出来た。
「……須臾……お願いだから、ソルティーを俺から取らないでよ」
小刻みに震える唇で、もう一度須臾に懇願する。
他の誰に何を言われようと気にはならない。須臾だからこんなに辛い。
そんなありありとした気持ちが伝わってきて、須臾の声音が徐々に冷静さを取り戻していった。
いや、それは落胆と寂しさだった。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい