刻の流狼第三部 刻の流狼編
「………………駄目…とか、の、問題、じゃなくて……」
「じゃあどんな問題なんだ? ソルティー、俺なんかいらない?」
「だからそう言う事はほん……」
――いや、此処で本気でそう思っている人に言えと言っても、恒河沙は本気だと言うに決まっている。たとえ深い意味を含んでいないとしても、この言葉はやばい。非常にやばい。
「ソルティー?」
――かといって深い意味を教えるにしても、この頭が間違って理解しないとも限らない。ただでさえもミルナリスと余計な賭をしているのに、そんな事を教えれば………、必ず須臾に殺される!
ソルティーの頭に走馬燈が流れ始め、額にはたっぷりと冷や汗が流れる。あまりの事に考え込む振りをして顔を逸らしてしまう有様だ。
「いるか?」と問われての返事など幾らもない。しかし「いる」と言えば間違いなく須臾が暗殺者に豹変するだろうし、「いらない」と言えば恒河沙がそれだけ傷付くだろう。
「……ハハハ」
チラッと恒河沙の顔を盗み見れば、もう一度乾いた笑いが出てしまった。
――やばいだろ……欲しいなんて……。
言い訳を探そうとするも全く浮かんでこない。須臾の様に『バカな子ほど可愛い』と言ってしまえればまだ良いが、勿論胸に感じるのは全く違う。
「どうしたんだ? ……やっぱり、俺なんか要らないよな」
あまりにも長く考え込まれれば不安にもなる。
ぽつりと呟かれた言葉は諦めにも似て、確実にソルティーを慌てさせた。
「いや貰うっ!」
奇妙な勢いに押されて口にした後、どっと後悔が押し寄せたのは言うまでもない。
しかし真っ直ぐに見つめた見慣れた顔が、とびっきりの笑顔になった瞬間には、後悔は跡形もなく消え去っていた。
ただし、
「えへへ、んじゃあげる。今日から俺はソルティーの」
恒河沙が嬉しそうにまた抱き付いてきた時には、再度ソルティーには拭いきれない後ろめたさが感じられた。
無論それは、脳裏に彼の保護者の顔が浮かんできたからだ。
「但し、絶対に誰にも言わない様に」
結局僅かばかりに考えた結論は、これまでに何度か使って成功してきた手を使う事だった。
少なくともこれまでにあった秘密事を、恒河沙は須臾に言っていない。もっとも何でも直ぐに忘れてしまう恒河沙だけに、その事全てを忘れている可能性もあるが。
しかし今回は少々勝手が違った。
「だけどあげるの教えてくれたのここのお姉ちゃんだし、須臾にも相談したんだ」
「………」
「それに、俺、須臾にだけは賛成して欲しい」
悲しそうに言う恒河沙に、ソルティーは悪寒が走った。
――死ぬな……。次に須臾に会ったら、確実に殺される。
「須臾はずっと俺の面倒見てくれたし、俺の事すっごく大事にしてくれたんだ。俺もソルティーの次に須臾の事好きだから、内緒であげたらやっぱり駄目だと思う」
――それは充分に知ってる。知ってるからこそ……ハァ、駄目だ、この馬鹿を返したくない。
「好きにしろ」
絶望と諦めと覚悟を同時に感じながらソルティーは呟いた。
「うん!」
更に強くしがみつく体は、全身で喜びを表現する。
まるで子犬の様にはしゃぐ恒河沙を、ソルティーは遠い目で好きにさせた。
――内蔵潰されるくらいで済めば良いんだが……。
再起不能までに体を切り刻まれなければ、恐らく動くだろう。
それによくよく考えれば、貰ったとしても何もなければ言葉遊びの様なものだ。精神論だけの話ならば、須臾もそう怒りはしないだろう。
何より相手が恒河沙だと改めて考え直せば、彼との関係がこれから変化するはずもないのだ。
「ソルティー、それでな」
「ん?」
やっと自分の考えすぎに気付いて肩の力を抜こうとした矢先に、また恒河沙は真剣な顔で話しかけてきた。
「うん。あのな、聞き忘れたんだけど、ソルティーはまだ、俺が一番大事?」
「それは同じだと言っただろ?」
「うん、でも大事? ……俺の事好き?」
「……クス、好きだよ。誰よりも恒河沙が大事で、好きだよ」
前に聞いた時とは少し違った響きでそれは恒河沙の耳に届いた。けれどもその意味は彼には判らず、だが満足度一杯の答えである事には違いない。
ただそれが新たな疑問を恒河沙に感じさせた。
「じゃあ、あのな、彼奴と何約束したんだ?」
「約束? 彼奴って、ミルナリスと?」
「うん」
「別に約束は……」
確かに彼女との取り交わした話は幾つかあるが、それは約束という物ではない。お互いに条件を出し合った、と言うのが近いだろう。
しかしそれをどうして恒河沙が? ――と、考える前に、彼がまた聞いてきた。
「だったらさっきどうして口引っ付けたんだ?」
「あれはただのキスで……あ、いや」
思わず口が滑ったとはこの事だろう。
慌てて訂正しようとしたが、もう遅い。
「キスって何? 口引っ付けるの約束以外でもなんかあるの? 俺もしても良い事なのか? 彼奴がしたのに俺が出来ないのやだぞ」
恒河沙は疑問一杯の顔で矢継ぎ早にソルティーに詰め寄り、両手で彼の顔を挟んだ。
「…っ! 一寸待て!」
一瞬意識が遠退きかけたソルティーは、恒河沙の顔が触れる寸前に手を自分と彼の間に挟み、無理矢理に押し退けた。
「どうして……」
あからさまに傷付いた顔をする恒河沙と、青ざめたソルティーの視線がぶつかる。
――どうしてこうなるんだ……。
恒河沙が単にミルナリスがした事をしようとしているだけなのは判っている。そこに妙な含みを考える方が、不純と言えるだろう。
とは言え、出来る事と出来ない事があるのは間違いない。
「俺……彼奴より好きじゃないから……?」
「そうじゃない。そうじゃないが……」
言葉が続かない。
恒河沙の真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐな想いが重い。
自分の所作一つでこれだけ感情を動かされると、とても軽々しくは扱えない。下手な言い訳をして気付かれた時を考えれば、それは恐怖なって感じられた。
「ソルティーは俺じゃ駄目なんだ」
「だから、そうじゃないんだ。……すればきっと後悔するから」
返される答えが判りきっていても、こう言うしか言葉が見当たらなかった。
「しない」
「する」
「しないったらっしないんだっ! だって俺、ソルティーの事ずっと好きだから。絶対に好きなままだから、後悔なんかしない」
邪魔をするソルティーの手を掴んで、恒河沙は切実な願いを口にする。
「俺、さっき彼奴がソルティーに触った時、すっごく腹が立った。彼奴がしたのに、ソルティーの事一番好きな俺が出来ないのメチャクチャ嫌だ。……彼奴が言った事何か判んないけど、だけどどんな事だって俺出来る。ソルティーとする事だったら、後悔なんかしない。だから他の奴じゃなくて、全部俺にしてよ」
純粋な愛の告白にソルティーは胸が痛んだ。
アルスティーナの時には感じた事も無い痛みに、心が揺れた。
「……絶対に、後悔しない?」
問い掛けながら、強く握り締めてくる手をそのまま運んだ先は、自分の唇。
触れた瞬間に驚いた様に指先が震え、細めた視線で見つめれば、熱っぽく潤んだ瞳の下に上気した頬が見えた。
ソルティーの色の無い世界でさえも、恒河沙の熱さは色を帯びる様だった。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい